ヨハネ福音書16章25~33節

2020年3月11日

(内容)

  • イエスが神(父)のもとから出て、また世を去り、父のもとに帰ることを信じることの大切さが語られている。さらに弟子たちには苦難が来るが勇気を出すようにイエスから命じられる。

(黙想)

  • ここには祈りについて興味深い記述がある。26節。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」。私たちにとってイエスの名によって願うことは当たり前である。そう教えられてきた。旧約のユダヤ人たちは、イエスの名によって願うことはなかった。クリスチャンはいつからイエスの名によって祈るようになったのか。
  • 14~16章でイエスは「わたしの名によって願うなら、何でもかなえてあげよう」と何回も語ってきた。しかしこの箇所で弟子たちはイエスの名によって願うようになるといわれる。その理由は、弟子たちが、イエスが父のもとから来て、父のもとへ帰ることを信じたからである。そして父は弟子たちを愛しているからである。言い換えれば、天の父の右におられるイエスが父に執り成しをしてくださるということか。
  • 30節で弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます」とあり、これを受けてイエスは「今ようやく、信じるようになったのか」と言われる。ヨハネ福音書においては、イエスが父なる神のもとから世に来たことを信じることが大きなテーマとなっている。それはユダヤ人にとっては信じがたいことであった。ユダヤ教とキリスト教がはっきり違うことが示される。
  • 我々にとっては、イエスが父のもとから来られたことは信じがたいことではないのか。神が人となった、それがイエス。神が人となり、死んでしまう、理解しがたいことではないか。それなのに我々はイエスを信じることに困難を覚えていないように見える。なぜなのか。イエスを漠然と信じているからではないのか。「イエス様は私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださる。私たちを導いてくださる」などと漠然と信じているのではないだろうか。
  • ヨハネ福音書はイエスが誰かを語っている。イエスは、「わたしは・・・・である」と繰り返し語っている。私たちはこれを本気で信じ、生きているのか、それが問われるように思う。
  • さらにイエスは、弟子たちに、苦難があることを告げる。しかしイエスによって平和を得ることができると告げる。またイエスは世に勝っているゆえに、たとい苦難があろうともイエスの平和があるので、勇気を出すようにと命じられる。
  • 32節以下で、弟子たちが散らされてイエスのもとを離れることが語られる。それは間もなくイエスが捕らえられたときに実現する。しかしイエスは、「わたしはひとりではなく、父が共にいてくださる」と語る。
  • 今、迫害を受けるという苦難はない。しかし高齢化社会の中で、伴侶を喪い、ひとりで生きている高齢者が沢山いる。孤独に生き、人と口をきかない日々を過ごすこともある。孤独、寂しさも、苦難と言えるかも知れない。それでも「わたしはひとりではない。父が共にいてくださる」とどのようにしたら告白できるのだろうか。
  • 教会は高齢化し、礼拝に集う人が少なくなり、教会が立ちゆかなくなる日も近づいている。これも苦難と言えるのではないか。世俗化した社会のあって神を求める人は少ない。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • (御父)27節。弟子たちを愛してくださる方。
  • (御子)28節。父のもとから来て、父のもとへ帰る方である。
  • (御子)32節。イエスは、父なる神さまが共にいてくださる方。
  • (御子)33節。イエスは弟子たちに平和を与えることのできる方。
  • (御子)33節。イエスは世に勝っているお方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)26節。イエスの名によって祈ること。
  • (勧め)33節。苦難に遭っても勇気を出しなさい。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、弟子たちが「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と答えたとき、イエス様は「今ようやく信じるようになったのか」と話されました。イエス様があなたのもとから来られたことを信じる、とても大切なことであるとあらためて思わされました。正直、イエス様があなたのもとから来られたことを「信じる」ことは考えたこともありませんでした。それは前提のように当たり前のように考えていました。
  • イエス様はあなたのもとから来られ、あなたのもとで聞いたことを人々に語り、あなたのもとで見たことを行われました。イエス様こそ、あなたがいかなる方であるかを新たに示されたことになりますね。ユダヤ人たちはイエス様を受け入れませんでした。
  • あなたはイエス・キリストを通して、何を新しくお示しになられたのでしょうか。それは文字通り、イエス・キリストによる救いを通して、信仰者を再生することにありました。旧約では、イスラエルの民は罪を犯し続けました。罪の支配の下にありました。でもイエス・キリストによる救いは私たちを罪から解放し、新生するところにありますね。
  • そのためには、救い主は人間でなければなりませんが、罪を犯さない人間である必要があり、神が人となられたのですね。罪を真に克服して生きるためにイエス・キリストがおいでになられ、私たちを救うあなたをお示しになられたのですね。
  • 3月22日のG教会での最後の説教をどうしたらいいか考えていました。人となられた神の子の贖いにこそ救いがあることを語る聖書箇所を取り上げたいと思いました。その箇所を探します。
☆与えられた導き
  • イエス・キリストの贖いを覚え、説教テキストとしての聖書箇所を選ぶ。
    (マルコ15章33~41節をテキストとすることにした)