聖書 ヨハネ福音書16章12~15節

2020年3月5日

(内容)

  • イエスは真理の霊について語る。弟子たちは今はイエスが語ったことが理解できないが、真理の霊が来ると理解できるという。真理の霊は弟子たちを導いて真理をことごとく悟らせる。真理とはイエスの語ったことを指すといってよい。

(黙想)

  • イエスの語ったことは、今弟子たちは理解できないが真理の霊が来ると理解できるという。真理とはイエスの語ったことであることが分かる。イエスの語ったことが真理であると分かるのは、真理の霊のおかげである。逆に真理の霊の導きがなければ、イエスの語ったことが真理であるとは認識できない。知的に理解することと真理として受けとめることは必ずしも一つではない。真理として受けとめると生き方が変わる。知的な理解は知的な理解にとどまる。
  • 真理の霊(聖霊)は自ら独自のことを語るのではなく、イエスが語ったことを真理として伝える働きをする。真理の霊により、私たちはイエスの語ったことを真理として受けとめる。
  • このことを通して、真理の霊はイエスに栄光を与える。真理の霊は、イエスの語ったことが真理であると証しをする。そのことによってイエスに栄光を与える。私たちがイエスの語った言葉を真理として受け入れ、真理によって生きるなら、それはイエスに栄光を与えることになる。私たちが真理を証しするとき、イエスに栄光を与えることになる。
  • 私たち信仰者とイエスとの関係を考えるとき、イエスに栄光を与えることは、私たちのイエスに対する誠実な働きと言える。イエスを主と仰ぎ、あるいはイエスを羊飼いとして従い、ぶどうの木であるイエスにつながろうとして生きる時、私たちはイエスに栄光を帰していることになる。それは他の人間には見えないが。
  • イエスを信じる私たちは他の信仰者がイエスに栄光を帰しているのを霊の目で見ることができる。
  • イエスはなぜここで「栄光」について語るのか。真理の霊は、私たちに真理を悟らせる働きをする。その真理の霊の働きは同時にイエスに栄光を帰する働きでもある。聖書は人間が神に造られた目的は神をたたえることにあると教えている。人間の行動には、目に見える「働き」と、その行動の奥にある「動機」がある。その動機が、神をたたえることにあれば、その働きはすばらしい。人間は利己的な動機で、人から称賛される行動をすることもある。私たちの行動にも動機がある。なぜ礼拝に行くのか。なぜ聖書を読むのか。なぜ・・・・するのか。その動機に神をたたえるという動機があるのか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (聖霊)真理の霊である聖霊は、イエスの言葉が真理であると私たちに教える。
  • (聖霊)聖霊は、そのことによって、イエスに栄光を与える。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)聖霊に導かれるとき、イエスの言葉が真理であると分かる。逆に言えば、聖霊の導きを受けないと、イエスの言葉が真理であると受けとめることができない。イエスの言葉をどんなに知っていたとしても、聖霊の導きを受けないとそれが真理の言葉であると受けとめることができない。イエスの言葉が知識として頭にとどまるのみ。
  • (教え)私たちの行動の背後には動機がある。自分はどんな動機で生きているのか。なぜ聖書を読むのか。なぜ礼拝に行くのか。人は自分の動機についてはあまり考えない。私たちの行動の動機も、イエスに栄光を与えるものでありたい。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。興味深い箇所を読むことができました。聖霊の働きの動機は、御子イエス様に栄光を帰することにあると知りました。私たちの行動にも必ず動機があります。私の日々の祈りの中に、「あなたをたたえる者として下さい」との願いがあります。
  • 今日、神さまをたたえることは、言葉でたたえることもありますが、自分の行動の動機が神さまをたたえるものであれば、神さまをたたえていることを知りました。自分の行動の動機について考えることは少なかったです。今日は、自分がなぜ聖書を読むのか、なぜ礼拝に行くのか、なぜ説教をするのか、どの動機について考えてみたいと思いました。
  • また聖書を読むときは、真理の霊の導きを求めて読みますので、聖書が告げることを真理と悟ることができるように導いてください。

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◎私が聖書を読む理由(動機)

  • 神さまは、私に対してよい人生を備えておられる。神さまが備えてくださる人生が最高の人生である。私はこう信じている。
  • 神さまは、み言葉により私に導きを与え、神さまが備えておられる人生へと導いてくださると私は信じる。
  • 私は聖書を通して、神さまの導きを受け取る。
  • 私にとって聖書を読む行為は、神さまは私に最善の人生を用意し、そこへ私を導いてくださるとの信仰の告白である。
  • ここに私が聖書を読む動機がある。

◎私が礼拝に行く理由(動機)

  • 礼拝は信仰者の義務だから礼拝に行く、という思いはない。
  • 礼拝に行くのは当たり前という感覚。
  • 神さまと私の関係を思うとき、礼拝を献げるのは、神さまを神とする信仰の行為。
  • 神を信じる者として、神を神とする行為として礼拝があり、礼拝を献げる。

◎私が説教をする理由(動機)

  • 神さまから与えられた使命と受けとめている。
  • 説教を準備し、説教することは喜びである。
  • 説教は、自己実現になっているか? それはないと思う。
  • 自分はすべきことをしただけであり、自分を誇る思いはない。
  • 神さまが与えてくださる救いの恵みの広さ、深さ、豊かさを解明して語る行為は、光栄な行為と受けとめている。

*詩編にあるように言葉に出して神さまをたたえることは少ないが、私の行為は、神さまをほめたたえることに根ざしていると考えてよいと思う。自分を振り返り、その結果を言葉にしてみた。