ヨハネ福音書16章1~4節

2020年2月27日

(内容)

  • イエスは自分がこれまで話してきたことは、弟子たちをつまずかせないためであると語る。弟子たちが迫害されるのは必然的なことであることを伝える。

(黙想)

  • つまづくとは、信仰から離れることを意味する。会堂から追放される、つまり迫害を受けて信仰を捨ててしまうことがつまづくこと。つまり身に不利益なことが起きると、不利益をもたらした信仰を捨てること、それがつまずき。弟子たちがつまずかないように、そうならないようにイエスは話した。
  • 人々がなぜ、弟子たち、信仰者たちを迫害するのか。その理由をイエスは明らかにする。迫害する者たちは、自分たちは神に奉仕をしていると考えている。神に対する熱心さゆえの迫害である。自分たちは神に仕えていると考えての行動なので、それをやめさせることは簡単ではない。説得もできない。
  • イエスが伝える神は、イエスをこの世に遣わした神であり、イエスにとっては父なる神であり、それがイスラエルの神である。しかし迫害する者たちはイスラエルの神を信じると主張しながら、イエスは信じないのである。信仰が違うゆえの迫害である。
  • イエスは迫害に直面するだろうと弟子たちに語った。4節の「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」の「あなたがた」は、迫害を受けいている現在の信徒たちであり、イエスの直接の弟子たちではない。
  • 問われるのは、迫害を受けたら信仰を捨ててしまうのか、迫害を受けても信じ続けるのか。自分の信仰が何か、問われる。自分に不都合なことが起きても信じ続けるか否か。今の日本では、特に官僚と呼ばれる人々は自分の地位を守るためには時の首相に忖度して自分たちの考えを曲げてしまっている。自分の良心を殺していると言ってもよいと思う。仕方がないと自分に言い訳をしながら。
  • 15章11節でイエスは「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と語っている。つまり弟子たち、信仰者たちは、迫害の中にあっても「イエスの喜び」で満たされるのである。
  • そもそも人は何を喜ぶのか。何を喜びとするのか。信仰に立って生きることを喜ぶことが大切。たとい迫害があっても、信仰に立つことを喜ぶ。これは、迫害のないときでも信仰に立つことを喜びとしていることが大切となる。信仰とは何を喜ぶかの選択でもある。信仰者は身の快適さを喜ぶのではなく、神を喜ぶ。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • (御子)弟子たちがつまずくことのないように配慮をなさる方
☆神が私たちに求める生き方
  • (勧め)迫害にあってもつまずかないこと
  • (勧め)信仰にしっかり立つこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。私は直接迫害には遭っていませんが、何を喜びとして生きているのか、信仰に固く立とうとしているのか問われる思いがしました。平穏な時は、信仰が問われることが少なく、自分自身を顧みることが少なくなります。惰性で生きることになります。
  • 今の私の課題は、信仰によって老いを生きるということです。心の面では、聖書に日々親しみ、み言葉によって考える訓練をしています。肉体については、この管理をあなたからゆだねられていると思っています。散歩をして健康を保つ努力をしていますが、まだ努力が足りないかもしれません。今朝はラジオ体操を久しぶりにしましたが、毎日行うことは仕事にしたらいいのではないかと思いました。喉の筋肉も衰えてきましたし、体を健康に保つことは大切ですね。
  • 話す声が腹から出す声ではなく、喉から声を出しているのが気になっています。讃美歌を歌うとき、十分声を出せません。今日は後で、喉をどのように健康に保つか、喉のトレーニングをどうしたらよいのか、調べたいと思います。健康を保ち、信仰に立って歩むことを喜びとしていきます。
☆与えられた導き
  • 喉の衰えを防ぐ方法を調べる。

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発声練習
アエイウエオアオ
カケキクケコカコ・・・