ヨハネ福音書14章1~6節(2)

2020年1月30日

(内容)

  • 心を騒がせている弟子たちに向かってイエスは弟子たちに「神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい」と言われた。

(黙想)

  • 直前でイエスはペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われた。これを受けて弟子たちはショックを感じ、心を騒がせたと思われる。そしてイエスは「神を、そして私を信じなさい」と言われた。
  • 弟子たちは、神を信じていないわけではないし、イエスを信じていないわけではない。むしろ信じている。しかし心が騒ぎ、不安に陥ったのである。だからこそ「信じなさい」とイエスは勧める。
  • 昔イスラエルの民がエジプトを脱出し荒野を旅し約束の地を目指した。約束の地を前にしたときモーセは偵察隊を遣わし、約束の地がどのような土地かを探らせた。偵察隊は、肥沃な土地で良い土地ですと報告した。しかし同時に、そこには強そうな民がいるとも報告した。これを聴いた民は怖じ気づき、「進もう」と励ますヨシュアを殺そうとした。不安や恐れに囚われたときこそ、信ずべき時である。しかし不安や恐れに囚われているから、信じることができない現実もある。
  • しかしイエスは「神を信じなさい、わたしを信じなさい」と語られる。イスラエルの民は信じることができず、エジプトに引き返そうなどと語った。「信じよう」「信じられない」の葛藤の中におかれると人は信じない方に傾く。信じて進んだ場合、もし期待通りの結果が得られなかったらどうしようと不安に駆られる。信じたことを後悔するのだったら、信じない方がまだ安心だとの思いがあると思われる。
  • この世の人の知恵は言う。「何もしないで後悔するより、して後悔する方がよい」。なるほどと思う。でもこれは人間的な知恵。
  • 「信じる」という苦渋の決断を我々はどうしたらできるのだろうか。その答えは祈りにしかないと思う。一つの祈りは、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)。

(聖書に聴く)

☆神はいかなる方
  • <御子>イエスは「信じなさい」と励ますお方。
☆神さまが私たちに求める生き方
  • <勧め>信じることを選ぶこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様は「信じる」ように弟子たちを励ましました。信じるべき時に信じられないという葛藤を覚えるのが私たちです。この葛藤をいかにしたら乗り越えることができるのか、私は考えてきました。理性による解決です。しかし理性には、この葛藤を解決する力はありませんでした。理性はこの葛藤の中で右往左往するだけでした。私がたどり着いた結論は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)でした。
  • 私は年をとりました。いつ召されてもおかしくありません。私は「喜んで死ぬ」という課題に取り組むことにしています。この課題は理性では解決できないことを感じています。聖書の言葉、イエス様の言葉を心に宿すしかないと思わされています。そして祈りです。
  • この段落には「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」とありました。これは二つに解釈できます。私たちはこの世にあって、復活の主と共に生きることができるとの意味、もう一つは死んで神さまのもとに行き、私たちはイエス様と共にいるとの約束です。私はイエス様と共にいることになるので喜べるはずなのです。しかしこの世を去ることに不安を覚えます。長く生きてきたこの世に対する執着が向こうへ行くことをためらわせるのです。ちょうど「進もう」と励ますヨシュアに対して怖じ気づいたイスラエルの民の中に自分を見いだすような思いをします。
  • 今日はあなたに祈ります。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈り、聖霊の導きを受けたいと思います。
☆与えられた導き
  • 祈る

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祈り
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  • 天の父なる神さま、御名を崇めます。今日聖書を読みました。イエス様が弟子たちに「神を信じなさい、そして私を信じなさい」と励ましておられました。弟子たちは心の動揺を抑えられず、心を騒がせていました。そんな弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしを信じなさい」と告げられました。
  • 弟子たちはもちろんあなたを信じていますし、イエス様を信じています。人は時に心を騒がせ、心が動揺し、信じたくても信じられないという状態になります。
  • 私には一つの課題があります。それは『喜んで死ぬ』という課題です。今私は生きています。大地にしっかり足をつけて生きています。死んだらどうなるのでしょうか。聖書から希望を与えられています。約束を与えられています。死という扉を開けて向こうへ行けばいいだけのことです。
  • イエス様は言われました「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
  • 「信じるか」と問われるイエス様に対して、私は「信じます」と答えます。死んでイエス様の所へ行く、神さまのもとへ行く、こんな素晴らしいことはないのに、心は必ずしも喜んでいないのです。この世にいる限り、大地にしっかり足をつけて生きていられるので、心は安心です。この安心、平安は神さまが与えてくださるものです。いざ死ぬとなるとこの世を去ることになります。この世を去ることに対してさびしさを感じます。この世への愛着があるのでしょうか。後ろ髪を引かれているようなのです。
  • 天の父なる神さま、今聖句を思い出しました。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:12~13)。
  • そうです神さま、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けて走ることです。天の父なる神さま、信仰の弱い私を助けてください。後ろ髪を引かれるこの世は「後ろのもの」です。前のものに全身を向けることができるように助けてください。聖霊の助けを与えてください。「私たちの本国は天にあります」。このことを心に刻むことができるように助けてください。あなただけが私の信仰を確かなものにしてくださいます。
  • 神の国というゴールを目指すことをきちんと考えることができるように助け導いてください。ゴールは知っていました。しかしゴールを目指すことは忘れていました。愚かな私を憐れんでください。パウロはテモテの手紙の中で、世を去るときが近づいたことを知り、「今や、義の栄冠を受けるばかりです」と語りました。
  • 私は今、福音の証人としてブログを書いています。ブログを書き続ける、これはマラソンのようなものです。走者がゴールを目指すように、私もブログを書き続け、あなたの国にゴールインできるように導いてください。走り続ける力を与えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。