ヨハネ福音書13章1~11節

2020年1月8日

(内容)

  • イエスは父のもとへ帰る自分の時が来たことを悟り、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。具体的には弟子たちの足を洗われた。

(黙想)

  • この足を洗う行為は何を意味しているのだろうか。14節では、弟子たちが互いに足を洗い合うことを勧め、イエスは模範を示したと語る。足を洗うのは足が汚れているからであり、洗って足を清めるのである。
  • ペトロはイエスに足を洗ってもらうのをためらうと、洗わなければ、「あなたは私と何の関わりもないことになる」とイエスに言われた。イエスとの関わりに生きるなら、足を洗ってもらわなければならない。そして弟子たちは互いに足を洗い合う。足を洗うとは何を意味しているのか。足を洗う行為が何を意味しているのか、今はわからないが、後で、分かるようになるとイエスは言われた。
  • なおイエスが「互いに~しなさい」と弟子たちに教えていることがあるのかと調べると、ヨハネ福音書では「互いに愛し合いなさい」と教えている。イエスは弟子たちに新しい掟を与えると語り、互いに愛し合うことを命じている。そして互いに愛し合うならあなたがたは私の弟子であると語られた。
  • 足を洗うとは、罪を赦すことか。イエスに罪を赦してもらうことは私たちの信仰の前提であり、赦しを受けることなくして信仰は始まらない。そして弟子たちは互いに罪を赦し合うのである。教会とは、罪を赦し合う共同体でもある。なるほど。
  • 人の足を洗うのはしもべの仕事とされる。自分をしもべの位置に置かなければできない業である。イエスはしもべの位置に身を置かれた。私たち人間のしもべの位置に立たれた。私たちは普通に生きていれば、自ら進んでしもべの位置に立つことはしないだろう。
  • 足を洗うとは何を意味しているのか。後で分かるようになるとイエスは語ったが弟子たちはどのように分かったのか。
  • 10節で、すでに体を洗ったものは、全身清いのだから、足だけ洗えばよいとイエスは語る。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(ヨハネ15:3)。清くされた者の汚れとは罪による汚れ以外には考えられない。
  • ヨハネは、イエスを罪を清める方として伝えているのか。しかし弟子たちが互いに罪を清め合うことはできない。
  • イエスが足を洗う行為にはいくつもの意味があると考えたらどうか。一つには、それはしもべとして仕える行為である。今ひとつは、罪を清める行為である。イエスが弟子たちに模範とせよと言ったのは、互いに仕え合うことと考えることができる。
  • 復活されたイエスは私たちを罪から清める方である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御子>御子イエスは、私たちの罪を清めるお方である。
  • <御子>御子は、僕(しもべ)の姿をとられたお方である。これを弟子たちに模範とするように身をもって教えられる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエスによる罪の清めを受けること。受けなければ、イエスとの関係がなくなる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様に足を洗っていただくことはイエス様との関わりに生きるために必要なことと教えられました。足を洗うとは罪から清められることと考えます。私たちはイエス様による罪の清めを必要とする存在であることをあらためて思います。
  • 「同じ罪を繰り返します」と語る信仰者の言葉をよく聞きます。それは自分でもどうしたらよいのかわからないのだと思います。教えられていないのです。イエス様が罪から清められる方であることについて聖書で確認し、罪からの清めについてまとめたいと思います。ダビデは姦淫の罪を犯した後、「わたしのうちに清い心を創造して下さい」と祈り求めました。この祈りはイエス様が実現して下さいます。このことをもう少し明らかにしたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • 罪の清めについて聖書から学ぶ(結果をブログに書く)

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清さについて 聖書から教えられること
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(要約)
  • 心の清い人とは、その心が神から清くされ、また自らも心を清くする人をいうと考える。私たちは自分の力で自分の心を清くすることはできない。心を清くしてくださるのは神である。私たちはこの神のみ業を信じ、自分は清くされたと信じる。そしてこの清さを保つように努力する。
  • 心の清さとはそもそも何か。清い心とは、神さまに素直に従う心、具体的には、神さまのみ心を大切にし、神さまのみ心を喜び、神さまのみ心に従う心を指すと僕は考える。神をないがしろにし、神に背く罪、これが汚れた心であり罪である。
(信ずべきこと)
  • イエス様は私たちの心を清めてくださったことを私たちは信じる。この清めは信じるべきものであって、実感されるものではない。
  • イエス様による清めについて語る聖書の箇所を列挙する。新共同訳聖書から。

ヨハ 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

テトス 2:14 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

ヘブル 1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

ヘブル 10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

ヘブル 10:22 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。

一ヨハ 1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

一ヨハ 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

(私たちは自分を清くする努力をする)
  • 私たちはイエス様によって心を清められる。このことを信じる。この清めは神の恵み、救いの恵み。
  • そして私たちは自分の心を清くするように努力する。この努力も神の恵みによって支えられる。具体的には聖霊の導きが必要となるので私たちは聖霊の導きを祈り求める。

二コリ 7:1 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

エフェ 4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

フィリ 1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、

フィリ 2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、

二テモ 2:21 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。

一ペト 1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

一ヨハ 3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

(心の清い人たちの幸いについて)

マタ 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。