フィリピの信徒への手紙 2章1~11節

2019年1月7日

(内容)

  • キリストに倣い、教会員同士、心をひとつにして愛に生きるように勧めています。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か

  • (御子)6節。御子は神の身分でありながら、この身分に固執せず、しもべの身分となり、人間と同じものになられました。自分の誇りとか、プライドなどにこだわることなく、自分を低くする謙遜な方です。
  • (御子)8節。死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に対して従順に歩まれました。
  • (御父)9節。神はイエス・キリストにあらゆる名にまさる名をお与えになりました。

☆神さまがわたしたちに求める生き方

  • (勧め)3節。利己心や虚栄心を動機として行動してはいけない。利己心や虚栄心が自分の心にあるかないかのチェック。
  • (勧め)3節。互いに相手を自分よりも優れた者と考える。とかく人は優越心を持ちたがる。そこに自分の誇り、プライドを抱く。そんな心にとって、この教えはバカらしく思えるに違いない。
  • (勧め)4節。自分のことだけでなく、他人のことに注意を払うこと。他者に対して関心を持つこと。他者に関心を持ち、他者のために祈ることが大切となる。祈ってこそ、その人を気遣っているといえる。
  • (勧め)5節。キリストに倣って生きること。キリストを模範として生きること。それはキリストを崇めること、たたえることになる。
  • (教え)11節。キリストに倣うとき、わたしたちは、イエス・キリストを主とし、父である神をたたえることになる。神をたたえるとは、言葉だけのことではなく、行いが神をたたえる行為となる。

(黙想)

  • パウロは、以上の教えにフィリピ教会の人々が心をひとつにして従うことを願っています。それがパウロの喜びだというのです。つまり、そこにはキリストの教会があるということだと思います。名ばかりの教会なのか、キリストの教会なのか。その試金石は愛の実践にあると教えています。
  • 教会では、礼拝が守られ説教がなされ、さまざまな集会がなされて教会としての活動がなされています。そういう活動がなされていれば教会なのかと問われるような思いがします。あるいは、わたしが関係した教会グループは信仰告白を大切にしてきました。信仰告白を学び、その信仰に生きるように努めました。でもそれでキリストの教会なのか、と問われる思いがします。
  • 個人的な経験からすると、愛に生きる教会という観点での説教がとても少ないように感じるからです。愛に生きる教会形成の試みが弱いように思えます。それは日本の教会がまだ未熟だからかもしれません。模範とすべき教会は聖書に描かれています。
  • 僕は教会に対して直接責任を負う働きからは退きました。自分に何ができるのかと思います。

(神の導き)

☆祈り

  • 天の父なる神様、この聖書箇所を読んで、何日も過ぎました。思いめぐらす中で一つの思いが与えられました。教会は置かれた時と場所の中で、教会であることの証しをしていかなければなりません。時には何を信じるのか、信仰告白が焦点になる時代もありました。宗教改革の時代は、プロテスタント教会が誕生し、何を信じるのかが大切な課題となり、多くの信仰告白が生まれ、また教理問答書が生まれ、信仰教育がなされました。
  • そして今、日本の教会は何を大切な課題とすべきかが問われます。教会は高齢化し、伝道が急務とされています。この時代にふさわしい伝道とは何かを考えます。
  • それはキリストを模範として愛に生きる教会の形成が鍵ではないかと思います。愛し合う信仰者の群れの中にあって人は励まされ慰められ、また自分の生き方を悔い改めることができるのではないかと思います。愛し合う群れにあなたは救いを必要としている人たちを送ってくださると信じます。
  • どうしたら教会は愛し合う教会になるのでしょうか。わたしの答えは、一人一人が御言葉に生きる人となることです。愛し合うことを教えれば人は愛する人になるとは限りません。人が自分の思いに生きることを悔い改め、あなたのみ心、あなたの御言葉に生きるようにしてこそ、愛する人に変えられていくと信じます。
  • 引退した今、私にできることは、ディボーションのサイトによって、御言葉に生きることを伝えることです。ささやかに働きですが、神さまに用いられることを願っています。今日のディボーションを通して、わたしのサイトは、愛の共同体である教会の形成に仕えるサイトであることを教えられました。新しい祈りが生まれました。「愛の共同体である教会の形成に仕える」サイトとなりますように、との祈りです。これを祈りの課題として祈り続けようと思います。

☆与えられた導き

  • 新しく与えられた祈りの課題を祈り続ける。