ヨハネ福音書 12章24~28節

2019年12月18日

(内容)

  • イエスはよく知られた有名な言葉、「一粒の麦・・・」と語られ、さらに心を騒がせ、父なる神に祈られた。

(黙想)

  • ヨハネ福音書においてイエスの死の意味は何なのか。イエスの活動はユダヤ人たちに反発をもたらした。イエスは律法を守っていない、自分を神のごとく考えている、と非難された。。そのためユダヤ人たちから命を狙われることになったし、最終的には処刑されることとなる。
  • 25節の「自分の命を愛する者は、それを失うが・・・」は信仰者の歩みには苦難が伴うことを告げている。信仰の歩みには苦難が伴うこと、まさにイエスはその典型・模範でもある。イエスの死、それは信仰者につきものの苦難の象徴でもある。
  • 15章20節にこうある。「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう」。 ヨハネ福音書はイエスの死を迫害の死と位置づけ、イエスを信じる者たちの模範としているのではないか。
  • イエスは言われる。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。
  • イエスは死を前にして一瞬、心を騒がせた。そして「救ってくださいと言おうか」と言われた。イエスは自分の死を前にして一瞬、この時から救ってくださいと願う気持ちになられた。「この時」を避けたいと願われた。しかし「この時のために来たのだ」と使命を確認された。
  • 迫害の死を前にして人間イエスも心を騒がせ、これを避けたいと願った。そう考えてよいと思う。このことは迫害の死を目の前にしている信仰者にとって励ましとなるのではないか。誰だって気持ちは揺らぐ。そのことを後ろめたく思う必要はない。
  • 歳をとり、自分の死を意識するようになる。死を越える希望はある。しかし住み慣れたこの世を去るのである。自分がどこへ行くのか、聞いてはいるが、絶対に本当だという確信はない。ただ信じているだけ。できたらもう少し、この世に留まっていたいとの思いになる。
  • イエスは、心が騒いだが、「この時のために来た」と確認し、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られた。これはどういうことなのだろう。これから迎える迫害の死、それが神の御心であるとのしるしを求めたのではないか。自分の死というのは、人生最大の事件である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエスは自分が迫害を受けて死ぬことを覚悟していた。でもイエスご自身は彼を信じる多くの人に永遠の命を与えることになるのを知っている。
  • (御子)ご自分の死を前に一瞬、心を騒がせた。それは私たちにとって、慰めともなる。
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)私も自分の死の時を迎える。どこに行くか知っているとはいえ、悟りきった信仰者として死ねるとは限らない。心が騒ぐかも知れない。きっと騒ぐ。でもそれはそれでいい。イエスも心を騒がせている。イエスのように父なる神に祈ることができる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様は迫害の死を遂げられました。しかしイエス様は御自分を信じる者に永遠の命を与えてくださいます。イエス様を信じる人は復活されたイエス様と結ばれ、イエス様と共に生きることができます。
  • 私はイエス様との深い交わりに生きることを願ってきました。まだそれが達成されているとは思えません。今日の聖書でイエス様は、死を前にしてあなたに祈られました。私は自分の死が迫っているわけではありませんが、歳をとりいつ死んでもおかしくない状態にあることは確かです。今日は自分の死を覚え、あなたに祈りたいと思います。死をめぐっていろいろな思いがありますので、心を注ぎだして祈ってみたいと思います。
☆与えられた導き
  • 自分の死を思い、神に祈る。
*祈り
  • 天の父なる神さま、私はあなたによって命を与えられ、この世に存在を始めました。私はあなたを知らずに育ち、成長しました。人間に死があることを知り、死を恐れました。生きることに喜びを見いだすことができませんでした。あなたの導きを与えられ、信仰を得て、永遠の命の希望を与えられました。
  • 歳をとり、死は遠い先のことではなく、いつ死んでもおかしくない歳となりました。死を越える希望を持つことができたことを感謝します。でもいざ、死が目前に迫る時、自分はどうなるのかと考えます。私は喜びをもって死ねることを願っています。そのために、聖書を読み、神の国について黙想をしています。さらに黙想を深めることができるように導いてください。またイエス様の言葉を思いめぐらします。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ12:25)。この言葉をイエス様の言葉として心で聞きます。そして主よ、信じますとイエス様にお答えしたいと思います。
  • 今日の聖書でイエス様が、心を騒がせたとあります。イエス様は神でありますが、同時に人間です。死を前にして心を騒がせたということは、私たちと同じというか、慰めになります。イエス様が死を前にして動揺したと考えることは決してイエス様をおとしめることにはならないと思います。私はかえって励ましを得るものです。
  • でもイエス様は、自分が何のためにこの世に来たのかを知っており、そこに立たれます。死を受け入れます。私もイエス様のように、心を騒がせたとしても信仰に立って召されたいと思います。導いてください。地上の生涯を終え、天に凱旋するのです。私のこれからの歩みを支え導いてください。