ヨハネ福音書 10章19~21節

2019年11月20日

(内容)

  • 羊飼いと羊に関するイエスの話を聞いてユダヤ人たちの間で、イエスをめぐって評価が分かれた。悪霊に取り憑かれているという者や、イエスの語ることに真理を見いだす者もいた。

(黙想)

  • イエスをめぐってユダヤ人の間の対立の話しはこれで三度目である。7章40節以降では、イエス様の話を聞いた群衆の間の対立で、イエスをメシアだという人とメシアはガリラヤから出るはずがないという人がいた。
  • 二番目の対立はファリサイ派の人々の中の対立で、安息日に盲人の目を開くわざは律法を守っていない。だから、イエスは神のもとから来た人ではないという。他方で、罪のある人間が盲人の目を開くようなわざができるかといって、イエスを認めようとする人々がいた。
  • そしてこの段落である。イエスを信じようとしない人はそれぞれの理由を語る。それは一理あるのかも知れない。他方で信じる人の信じる理由も語られている。この違いは見解の相違であり、議論したからと言ってどちらかが説得されることはない。どちらが神に真実に生きているか、である。
  • キリスト者と呼ばれる人々は、イエスをメシア救い主と認め、信じる立場にいる。聖書をどう理解するかにおいては、立場の相違、見解の相違があるのも事実である。カトリックとプロテスタントでは、理解の違いがある。
  • 問題は、自分の理解が神さまの御心に一致していると信じ、信じるところに従って生きることである。理解の違いが行動となって現れるなら、その行動の違いは、どちらの理解(解釈)が聖書的であるかが分かるのではないか。
  • そして聖書の理解、解釈については、長い歴史があり、先人がこれに取り組んできた。それらを謙遜に学ぶことも大切であり、同時に自分自身が聖霊に導かれて聖書を理解することも大切である。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)イエス様を正しく理解し信じること。神さまに対して開かれた心でイエスによる救いを理解すること。自分の考えが聖書的かどうか、自己批判する心を持つこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日もディボーションができ感謝します。イエス様を正しく信じ生きることを教えられました。牧師として説教の働きを終えた今、自分が信じ説教してきたことと出会った信仰者たちの歩みを見て、彼らが信じていることとの違いを感じます。イエス・キリストによる救いは何なのか、それが十分伝えられ、信仰者を生かしているか、生かし切れていないのではないか、そのようなことを思います。言い換えると信仰者はもっと幸いな祝福に満ちた歩みをすることができるのにできていないと思わされるのです。
  • 福音が何かは、自明で信仰者は皆知っていると考え、説教では、信仰者の生き方が多く語られる中で、福音が何かがおいてきぼりにされているような気がしています。
  • 聖書を理解し、聖書に生きるための個人的な課題もありますが、自分の福音理解を検証してみたいとの思いになりました。最近は神学者のK氏の文書を読んでいて共感するところが多い気がしています。彼が著した信仰告白の解説の書物を読んで、検証してみたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
  • K氏の本を読む。