ヨハネ福音書 9章1~12節

2019年11月1日

(内容)

  • イエスは通りすがりに出会った盲人の目を見えるようにされた。この出来事をめぐってまたファリサイ派の人たちイエス批判が繰り返される。4~5節は挿入と考えた方が理解しやすい。

(黙想)

  • 4~5節を取り去れば、この段落はイエスが盲人の目を見えるようにしたという奇跡物語として素直に読める。イエスがつばで土をこねたものを盲人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと命じた。ここには暗黙のうちに目が見えるようになるとの約束がある。そして盲人がイエスの命令に従いシロアムの池に行き眼を洗うと見えるようになった。イエスの命令、神の命令には祝福が伴うことを教えられる。その命令に従うとき、祝福が実現する。神の命令に従うときの祝福はいつも明らかとは限らないが、神に従順に振る舞えたという霊的な祝福があると思う。
  • 4節には「わたしたち」とあり、これが誰なのかという問いが残る。おそらくヨハネ福音書の最初の読み手と思われる。つまりヨハネ福音書を読む人たちは厳しい状況の中にあった。イエスを証しする働きを行えなくなる夜が来るという緊迫した状況に読者はおかれていると考えることができる。その時が来る前に世の光として精一杯証しの業を行おうというのである。
  • イエスもファリサイ派や律法学者たちの反発に遭い、命を狙われる事態にある中で、救い主としての働きを続行されている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)6節。御子は神の御業を行われる方である。御子は救いを必要とする人のためにいつでも働かれるお方である。
☆神が求める私たちの生き方
  • (教え)3節。イエスは「障がい」が人間の罪に起因するものではないと教えられた。障がいは罪のせいだという偏見を取り除かれた。
  • (勧め)4節。日のあるうちに「わたしをお遣わしになった方の業を行わなければならない」。私もまた福音を宣べ伝えるために神さまに召された者である。牧師の働きを隠退し、年老いて、できることは少なくなってきた。日のあるうちに、命のある間に、証しの働きをしたいと思う。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、イエス様は十字架の死に至るまで、あなたから遣わされ、あなたの御業を行われました。そしてヨハネはヨハネ福音書を書き、教会の人々を励まそうとしました。教会は迫害という緊迫した状況にあると予想されます。そして宣教ができなくなる夜が来る前に、日のあるうちは、福音宣教を続けようとの励ましの言葉を読みました。
  • 私は歳をとり、牧師の働きから退きました。説教する機会は時々与えられ、御言葉の奉仕をすることができることを感謝をします。またブログで福音の証し、イエス・キリストを証しする文章を書いていますが、これらが今私にできる働きかと思っています。
  • 先日『よろこんで歳をとりたい』という本を読みました。そこには「生きているだけでよい」「ただいるだけでよい」「生きていることを楽しむのだ」とありました。共感する言葉ですが、まだその心境にはなれません。イエス・キリストのために自分ができることはまだあるのではないか、と考えます。
  • 再来週の日曜は説教奉仕の日です。説教箇所、説教題を決めなければなりません。また昨日はブログを書くのを休みました。何を書いていいか分かりませんでした。今日は書きたいと思います。何を書けばいいのか教えてください。福音を証しする言葉を与えてください。
☆与えられた導き
  • 証しする言葉を与えられるように祈る