ヨハネ福音書 6章41~51節

2019年8月21日

(内容)

  • イエスは、ご自分が天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死ぬことはなく、永遠に生きると宣言された。

(黙想)

  • イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言ったとき、ユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか」と言った。思い出すのは、ダビデを選び出すときの神の言葉である。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。ユダヤ人たちはイエスの外面的なことしか見ていない。イエスが何を語っているのか、きちんと受けとめようとしていない。外面しか見ないで物事を判断し行動する危うさを教えられる。
  • 誰がイエスを信じるのか、をめぐって面白い記述がなされている。44節には「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と語られる。45節には、「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」。
  • 誰がイエスを信じるのかについて、二つのことが述べられる。一つは父が引き寄せた人。もう一つは、父から聞いて学んだ者。イエスを信じるには、神の導き、恵みがあり、また人間の側で聞いて学ぶことが必要となる。人は神の導きだけでイエスを信じるのではない。また自分の努力だけで信じるのでもない。神の導きと自分の努力が合わさって信じる者とされ、信じる者となる。信仰の歩みにおいては、神の導きと自己の努力の二つが必要であることを教えられる。
  • 祈りにおいて、神に何事かを願うとき、それがかなうために私たちには何ができるのかを考えることも大切であると教えられる。神は、私たちを導き、私たちが行うことを通して、願いを実現に導くこともある。神は何をせよと言われるのか。
  • イエスを信じる者は永遠の命を得ているとある。永遠の命は信仰者が持っているもの、与えられているものである。これはどういうことか。そもそも永遠の命とは何か。この永遠の命を有する人は、死ぬことなく、永遠に生きるとイエスは教えられた。どういうことか。
  • 永遠のいのちとは、神との交わりに生きること。イエスは17章の3節でこう語られる。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。「知る」とは交わりに生きること。人間にとって神との交わりの中にあることが生きることであり、この交わりの中にいなければ死んでいることとなる。これは人間を霊的に見た判断である。永遠の命は霊的な命、生物としての命とは違う。私たちは生物としての命の終わりは迎えるが、霊的に見れば、死なない。肉体の死を越えて、私たちはなお神との交わりに生きると信じることができる。「後の世に語り伝えよ。この神は世々限りなく私たちの神、死を越えて、私たちを導いて行かれる、と」(詩編48)。
  • 言うまでもなく大切なことは、神との交わりに生きることである。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。「わたしの肉」は、イエスご自身のこと。イエスの肉を食べるとは、イエスを受け入れ、イエスとの交わりに生きること。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御父)44節。私たちをイエスを信じるように導かれる方。私たちは導かれても、自動的に信じる者になるわけではない。神は私たちの意志を無視して私たちを信仰者にはしない。信じる決断は私たちがする。
  • (御父)45節。父なる神が私たちを引き寄せるとは、神が私たちを礼拝に導かれるということ。神が私たちに語られるということ。たとえば説教を通して、神が私たちに語られること。
  • (御子)41,48節。イエスは天から降って来たパン、そして命のパンである。
☆神が求める私たちの生き方
  • (勧め)45節。父から聞いて学ぶこと。聖書を読むとは、神から聞くこと。説教を聞くとは、神から聞くことでもある。父から聞いて学ぶ機会はいくらでもある。
  • (約束)50~51節。永遠の命とは、神との交わりに生きること。この人は霊的に決して死ぬことはない。永遠に生きる。
  • (警告)43節。上辺だけで物事を見てはいけない。人を外面だけでてはいけない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日の聖書を読んで印象的だったことは、人はどのようにしてイエス様を信じるかということです。父が引き寄せてくださらなければ信じることはできません。そしてその人が父から聞いて学ばなければ信じることはできません。
  • 私は求道者の方が洗礼に導かれるように祈っています。もう3年も祈っている人がいます。彼は教会の礼拝に来ています。言い換えると父なる神さまは彼を引き寄せてくださっています。後は、父から聞いて学ぶことですね。礼拝でメッセージは聞いています。メッセージが心に触れること、悔い改めに導かれること、信仰者として生きる決断をすることが求められます。これらのことは祈ってきました。
  • でも今日は、何らかのアクション、働きかけの必要を知りました。私は、あなたに彼を受洗へと導いてくださいと祈っています。この祈りが聞かれるために私は何をしたらいいのか。もちろん、私以外にも祈っている人たちがいます。私のすることが彼の受洗に決定的な役割を果たすことになるとは思いません。ただ祈る者として、神さまにお願いをするだけで後は待っていればよいのか、と思わされました。
  • 文面はこれから考えるとして、葉書を書いてみたいと思いました。適切な文章を書けるように導いてください。
☆与えられた導き
  • Sさんに葉書を書く