ヨハネ福音書 2章23~25節

2019年6月7日

(内容)

  • イエスがエルサレムにいたときになさったしるしを見て多くの人がイエスを信じたが、イエスは彼らを信用されなかったし、また人がイエスのことを証しすることを必要とされなかった。

(黙想)

  • 23節でイエスの行ったしるしを見て多くの人がイエスを信じたとある。そもそもこの福音書はイエスのなさったしるしを記録した。その目的は読者がイエスを神の子メシアと信じるためであると20章の冒頭に書かれている。
  • 23節で多くの人がイエスを信じたとあるが、24節でイエス自身は彼らを信用しなかったとある。イエスはしるしを見て信じる信仰を信用しなかったという。しるしを見て信じる信仰は、何を信じているのかは明確ではない。しるしを行うイエスが通常の人間ではないこと、あるいは神から遣わされた者であることを信じるかも知れない。しかし、イエスについて何を信じるのかは明確ではない。
  • イエスはトマスに対して、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、さいわいである」と語られた。しるしを見ずとも信じる幸いを語られた。聞いて信じる信仰である。イエスが語られることをそのまま受け入れ信じる信仰をイエスは求めておられるように思う。
  • イエスは人間の心の中にあるかをよく知っていると書かれている。しるしを見て信じる信仰は当てにならないことをよくご存じなのである。聖書における神信仰は、神の人格に対する信頼であるが、人間の心には、信仰を通しても自分の益を求める心がある。
  • しるしを見て信じる信仰は否定されるべきものではない。なぜならイエスはしるしを行っているのだから。信仰はしるしを見ることに留まらず、イエスが語ることに耳を傾ける。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)しるしを見て信じた人を信用されない方。
  • (御子)人間の心の中に何があるのかをよく知っておられる方
☆神が私たちに求める生き方
  • (勧め)イエスに信用される信仰者になりたい。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様はしるしを見て信じる信仰者を信用されないと書かれていました。しるしを見て信じる人はまたしるしを求めるかもしれませんし、しるしを求めて与えられないと信じることができなくなるかもしれません。しるしを求めて信じる人は、何を信じているのか、あいまいだと思います。
  • 私はイエス様に信用される信仰者になりたいと願います。イエス様が信用する人とはどのような人でしょうか。イエス様は何よりも「言が肉となられたお方」ですから、み言葉を信じ、み言葉に従う人が、イエス様に信用される人であると思います。
  • デボーションをして、イエス様は日々御言葉に親しみ、御言葉に神さまの導きを求める人こそ信用なさるのではないかと思います。もし私がイエス様だったら、神学的に優れた知識を持ち、深く思考することができる人を信用するでしょうか。知識と思考はすばらしくとも、問題はいかに生きるかだと思います。み言葉を知っているだけではなく、御言葉に生きることが大切と信じます。そして自分が御言葉に生きることが大切です。そしてイエス様は自分の歩みをどうご覧になるのか、場合によっては自己批判できることも大切だと思います。
  • 神さま、自分の歩みを振り返って私のデボーションに対する姿勢はどうでしょうか。デボーションの内容はどうでしょうか。何か比較するものがあると自分を顧みることができますね。自分のディボーションを公開している人がいるかもしれません。それを探してみたいと思います。
  • 私は自分のディボーションを公開し、御言葉に生きることの証しをしていますが、サイトにアップするペースが遅くなっていることを思います。これは改めなければならないと思います。
☆与えられた導き
  • ネットで他者のデボーションを捜してみる。
  • 今日、デボーションをサイトにアップする。三回分。