ルカ福音書 23章26~43節

2019年4月23日

(内容)

  •  十字架についたイエス様は、人々から侮辱された。しかしイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈っている。

(黙想)

  • イエス様は自分を十字架につけた人々について、その罪の赦しを祈っている。対照的にそこには何もできないイエス様をあざける人々がいる。議員たちが「メシアなら自分を救ってみろ」と嘲笑った。兵士たちも「ユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と侮辱した。十字架につけられた一人も「自分自身と我々を救ってみろ」とののしった。他者をあざけりののしることを喜ぶ人間の卑しさが目立つ。
  • 他方で十字架につけられたもう一人の犯罪人はイエス様をののしった犯罪人を咎め、その上で、イエス様に「わたしを思い出してください」と語っている。救いを求めていると言ってよい。イエス様は彼に対して、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と救いを約束された。
  • 人間の卑劣さ(罪)とイエス様の憐れみが対照的である。侮辱される、それは自分を否定されることである。自分を否定されたら人は、怒りを抱いて相手を攻撃するか、自分はダメな人間だと打ちのめされてしまうか、の反応を示す。自分を平常に保つことはむずかしい。他者を否定することは強烈な攻撃だ。自分を否定するものの存在は許しがたい。人が何と言おうと自分は自分、と平静になれればよいが、なかなかなれない。それが人間だ。
  • イエス様は、「父よ、彼らを許してください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成しの祈りをする。イエス様をののしる者たちは、神の前に罪を犯している。それはいつの日か、神の前に裁かれる罪となる。「いい気味だ」と我々は言うかも知れない。しかしイエス様は、執り成しをしている。イエス様は救い主として人が罪を犯し滅びることを願っていないし、執り成しさえしておられる。
  • イエス様は罪を重大なことと考えている。この真剣さに我々はついて行けない。我々は簡単に自分の罪を認識できない。だから聖書は、聖霊が我々に罪の自覚を与えてくれると書いている。イエス様は我々の罪を見逃さないが、われわれを憐れんでくださるお方であり、罪からの救いのために、自分の命を犠牲にしてくださるお方である。
  • イエス様を信じる者は「互いに赦し合いなさい」と教えられている。それは主イエスに倣いなさいとの教えが含まれている。
  • 他者をあざける思い、たとい口に出さず、行動に出さずとも、心の中にその思いがあるなら、私は、卑劣な卑しい心を持つ者である。
  • 「わたしを思い出してください」と自分の罪を悔いる者には、イエス様は救いを約束している。イエス様は憐れみ深い方である。