ルカ福音書 22章66~71節

2019年4月16日

(内容)

  • 最高法院での裁判の場面。「お前がメシアなら、そうだが言うがよい」と問われたイエス様は「今から後、人の子は全能の神の右に座る」と語られる。このことが神を冒とくしたことと受け取られ、イエス様はローマ総督ピラトのもとに連れて行かれる。

(黙想)

  • イエス様を裁こうとする祭司長や律法学者たちがいる。彼らは神を信じているとされる人々である。宗教指導者である。その彼らが神から遣わされたイエス様を信じようとはしない。人が神を信じるという時、そこに枠を作ってしまい、その枠を外れることは信じないことがある。イエス様は彼らの枠におさまらないお方であった。罪の贖いのために自らの命を犠牲にする救い主なんて、彼らには理解できなかった。
  • 信仰者といえども枠を作りがちである。私は神さまをこう理解し、こう信じると枠をつくるのである。枠の中に入らないことは信じようとしない。キリスト教の教派、神学も時には「枠」になる。イエス様は枠の中に入るお方ではない。
  • イエス様は御自分が神の子、神であることを明言された。「全能の神の右に座る」。祭司たち、律法学者はこれを神冒とくと受けとめた。イエス様は神であり、復活後天に昇られ、父なる神の右に座しておられると私たちは使徒信条によって告白している。
  • キリスト信仰は一定の枠を持つ。三位一体を否定する信仰は拒否する。イエスが神であることを否定する立場は取らない。枠は必要。しかし枠にとらわれすぎてはならない。自分の枠を作って信ずべきことを信じない、信じてはならないことを信じる、そのようなことのないようにと願う。
  • 「お前がメシアなら、そうだというがよい」。これに対してイエス様は「そうだ」とは言わなかった。しかし「今から後、全能の神の右に座る」と言われた。これは「わたしはメシア」と言ったのと同じである。信じてもらえるどころか、神を冒とくしているとイエス様は非難された。
  • 何が真理であり、何を信ずべきなのか、信仰に生きるとはどういうことなのか、ひたすら聖書に聞き続けることの大切さを思う。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエス様はメシアである。今、天の父の右に座しておられる方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (警告)枠にとらわれることは気をつけなければならない。自分はこう信じる、という枠を絶対化してはいけない。謙遜に聖書はどう言っているか、耳を傾けることは大切である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日は聖書を読み、自分の枠を絶対化してはいけないと教えられました。今わたしはある人のロマ書の説教を読んでいます。今は8章の説教を読んでいます。そこには私のもっている枠をにおさまらないことが書かれています。そして簡単にその内容を否定できないことを感じています。著者の語ることが聖書的に正しいのではないか、もしかしたら枠を広げる必要があるのではないかとさえ思います。自分の枠を吟味しなさいと今日の聖書から教えられました。
  • 著者の語ることを受け入れてみたいと思います。著者の語ることに従ってみたいと思います。時が来れば、それが正しいのか否か、結論が出ると思います。神さま、私を真理へと導いてください。
☆神の導き
  • 著者の語ることに従ってみる