ルカ福音書 22章35~38節

2019年4月10日

(内容)

  • 過越の食事を終えたイエス様は、弟子たちに財布、袋、剣の携行を命じる。そして自分が「犯罪人の一人に数えられる」との聖書の言葉が実現することを語られる。

(黙想)

  • イエス様が捕らえられる場面の記述は、マタイ、マルコ、ルカ三者三様である。どの福音書にもイエス様のそばにいた者が剣を振るい、大祭司の手下の耳を切り落としたことが書かれている。しかしだれが剣を振るったのかはあいまいな記述になっている。弟子と明示的には書いていない。過越の食事の場面から、ゲッセマネの園に行ったのだから、やはり弟子の一人が剣を振るったと考えてよいだろう。
  • マルコは「ある者が大祭司の手下の耳を切り落とした」ことだけを書き、それ以上に何も書かない。マタイは、イエス様は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と語ったと書く。弟子の一人が剣を振るったことはイエス様の本意ではないことがわかる。
    剣の携行を命じるイエス様の言葉は、ルカ福音書にしか記されていない。イエス様が捕らえられる場面で、イエス様の周りにいた人々は「主よ剣で切りつけましょうか」とイエス様に尋ねている。これに対してイエス様は何も答えない。ある者が大祭司の手下の右の耳を切り落とすと、イエスは「それでよい」と語り、手下の耳を癒やされている。剣を振るった行為は、イエス様を捕らえようとする行為に対して抗議を示しているように思える。
  • ルカはイエス様を捕らえることが不当であることの抗議を示そうとしたのかもしれない。そのために剣の携行を弟子たちに命じ、剣を振ったら、「それでよい」と語り、耳を切り落とされた大祭司の手下の耳を癒やされている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)37節。イエス様は自分の身に起こることが聖書に書かれていることの実現と考えている。「犯罪人の一人に数えられた」(イザヤ53:12)と聖書に書かれていること、つまり神の言葉、神の計画が自分の身を通して実現することをイエス様は信じている。別な言い方をすれば、イエス様は神の計画に身を献げている。
  • (御子)38節。剣の携行を命じるイエス様には、自分を捕らえようとする者たちの行為に対して抗議する思いをもっているお方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • (模範)37節。「わたしにかかわることは実現するからである」とのイエス様の言葉。このイエス様の言葉は模範である。
  • イエス様の言葉の「わたし」を私たちに置き換えることができる。聖書には、「わたし」(信仰者である私たち)に関わることが沢山書かれている。たとえばイエス様を信じる者は永遠の命を得るとの約束は、わたしに関わることであり、これが実現していることを私は信じる。イエス様を信じる者は義とされる、これも「わたし」に関わる約束であり、実現していることを私は信じる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様は御自分が苦しみを受けられることを聖書の言葉の実現ととらえ、自分の身を通してあなたの計画が実現されることを受け入れておられました。ここにあなたに対するイエス様の従順を見ることができます。
  • あなたへの従順というと、あなたの教えを守ることと考えがちですが、「わたしにかかわることは実現する」とのイエス様の言葉を目にする時、聖書に書かれているあなたの約束の言葉が自分の身に実現することを信じることもまた、あなたへの従順であることを思います。いやそれ以上に、あなたを崇めることになることを思わされます。
  • イエス様はいよいよ十字架に向かって歩み始めます。ご自分の死に向かっての歩みを始めます。年老いた者には、自分の死に向かって歩んでいるとの思いが実感されます。そして「わたしにかかわることは実現する」とのイエス様の言葉は、私の言葉でもあります。聖書には信仰者に関わる約束、特に死を越える約束があり、それらの約束は「わたしにかかわること」として実現することを信ずべきことを今日は教えられました。
  • イースタ礼拝の説教の奉仕を与えられています。どの聖書を説教テキストにするか思案していました。昨夜、聖書テキストをあなたが示してくださいました。就寝前に歯を磨いている時、一つの聖句が心に浮かんできました。そこには死を越える希望として「わたしに関わること」が語られています。今日は、聖書箇所と讃美歌をG教会に連絡し、聖書テキストを黙想することにします。
(与えられた導き)
  • イースタ礼拝の聖書箇所と讃美歌を連絡する
  • 与えられた説教テキストを黙想する。