ルカ福音書 22章24~30節

2019年4月2日

(内容)

  • 過越の食事が終わった後、弟子たちの間で誰が一番偉いのかとの議論が起きた時のイエス様の答えが書かれている。

(黙想)

  • ルカ福音書の9章46節以下でも弟子たちの間で、誰が一番偉いのかとの議論が起きている。そこではイエス様は小さな子どもの手を取り、自分のそばに立たせて「最も小さい者こそ最も偉い」と教えている。今日の段落では、一番偉い人は一番若い者のようになり、上に立つ人は仕える者のようになりなさいと教えている。
  • そして給仕の例を引き出し、イエス様は仕える者として、ご自分を模範として弟子たちに示された。イエス様はご自分の身を犠牲にして人々を救おうとしているのに、自分たちの中でだれが一番偉いかと語る弟子たちの心はイエス様の心からほど遠い。イエス様のことが何も分かっていない。
  • 28節の言葉は不思議さを感じる。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭った時、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」。
  • イエス様は具体的に何を指してこのようなことを語っているのか。イエス様はどのような試練に遭ったのだろうか。たしかに弟子たちはイエス様を行動を共にした。ここでは「踏みとどまった」とある。つまりイエス様が試練に遭い、それを見て、イエス様のもとを去らずに踏みとどまったというのである。ゲッセマネの園では、イエス様は試練の中で祈ったと言える。その時弟子たちはイエス様を見捨てて逃げている。踏みとどまってはいない。イエス様の言葉とは真逆なことを弟子たちはこれから行うことになる。
  • 我々は、聖餐にあずかる時、自分が偉い者になりたい、人から認められたいとの思いは捨て、むしろ仕える者として歩むべきことを教えられる。そしてイエス様を模範として歩む我々が試練に遭う時、霊的な現実としては、イエス様が試練に遭っておられるということであり、我々は、イエス様の試練を体験しているのである。それゆえ我々は試練に踏みとどまる。イエス様と試練を共有するのである。28節の言葉が実現する。
  • 踏みとどまる弟子たちは、神の国ではイスラエルの十二部族を治めることになるとイエス様は語る。この世では仕える者として歩む弟子たちに対する神の国での報酬が語られる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)自分たちの中でだれが一番偉いのか、との弟子たちの議論に対して、偉い人は一番若い者のように、上に立つ者は仕える者のようになりなさいと命じ、イエス様は御自分を「給仕する者であり」と語り、仕える者としての見本を弟子たちに示された。イエス様は仕える者として歩まれる方。
☆神さまが私たちに求められる生き方
  • (勧め)26節。仕える者として生きる。
  • (励まし)28節。私たちが試練に遭う時、それはイエス様が私たちに先立って試練に遭っておられるということであり、私たちはイエス様と試練を共にすると考えることができる。だから試練から逃げず、踏みとどまり、試練に直面して生きる。神は絶えられない試練は与えられない。逃れの道を備えてくださるとのみ言葉がある。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、28節の言葉が心に残りました。この言葉とは真逆な歩みを弟子たちはこれからすることになります。やがてペンテコステを迎え、聖霊が注がれた弟子たちは迫害に負けることなく、イエス様を宣べ伝える者とされました。私たちが試練に遭う時、それはイエス様の試練を体験することであり、イエス様と試練を共有することであると教えられました。
  • 牧師の働きから引退し、教会の務めを負う責任から離れました。でも福音を宣べ伝えるという使命から離れたわけではなく、福音が宣べ伝えられることを祈ることは大切な働きと思っています。今私は特別な試練に遭っているわけではありませんが、教会が伝道不振にあえぎ、教会員は高齢化し、若い人が少なく、教会の将来が危ぶまれます。これは大いなる試練です。大いなる危機感を感じます。今日は聖書を読み、この危機感をすでにイエス様は感じておられ、イエス様はこの危機を乗り越えようとされていると受けとめました。だからこの危機、試練から逃げるのではなく、このような危機がないかのように生きるのではなく、試練の中にむしろ踏みとどまって歩むことを教えられます。
  • 天の父なる神さま、私は引退した牧師です。伝道について名案を持っているわけではありません。でも伝道が成功するために絶対に欠かせないものを知っています。それは御言葉です。私たち信仰者が御言葉によって歩み、その姿を見せていくことです。キリストを信じて生きる幸いを示していくことです。信仰者として生きる姿を見せ、それが本物の生き方であることを示すことです。これなしには伝道はむずかしいと私は考えます。
  • 今は受難節です。キリストの苦しみを思う時期とされています。私にとってキリストの苦しみを思うことは、聖書を黙想することです。今日は、十字架を前にしたイエス様の言葉を思いめぐらしました。感謝します。教会ではキリストの苦しみを思うことが勧められますが、どのようにして苦しみを共感するのか、わからない人も多いことと思います。私も正解は分かりませんが、聖書を思いめぐらすことは一つの方法だと思います。
  • 今日はこのディボーションをブログに載せることにします。これを読んだ人が一人でもキリストの受難を語る聖書の箇所を黙想されることを祈ります。
☆与えられた導き
  • このディボーションをブログに載せる。

(1)マルコ9:33以下
主イエス一行がカファルナウムに来た時。

(2)ルカ9:46

(3)ルカ22:24

(4)マタイ18:1
天国で誰が一番偉いかとの議論。
イエスの答え
「だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」。