ルカ福音書 14章25~35節

2018年10月19日

(内容)

  • イエス様の弟子とはどのような人のことを言うのか、イエス様は群衆に教えます。そして塩気を失った塩は役に立たないことを教えます。

(黙想)

  • イエス様は、ついてくる群衆に弟子の覚悟を教えています。そして塩気のなくなった塩の話しは、弟子が弟子らしさを失ったら、何の役にも立たないとの話しです。イエス様の話を聞いてイエス様について行く弟子になろうと群衆が思ったかどうかは分かりません。多分思わなかったと思います。でもイエス様は、ご自分について来る群衆に、イエス様に「ついて来る」とはどういうことかを教えられました。
  • かつてイエス様は、ペトロが信仰を言い表したとき、弟子たちに「私について来たい者は」と弟子がどのような歩みをすべきかを教えました。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。
  • 14章で今群衆は、イエス様の後について来ていますが、それは物理的にイエス様について歩いているだけで、イエス様に従うという生き方をしているわけではありません。そこでイエス様はご自分について来たいと願う者の生き方がどのようなものか、つまりイエス様の弟子として歩む生き方がどのようなものかを群衆に教えられます。では私たちはどうなのでしょうか。イエス様の弟子として歩みたいと願っているのかどうか。それともイエス様の弟子とは、牧師など一部の信仰者のことなのでしょうか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエス様は御自分の弟子がいかなるものかを教えられました。自分の家族、自分の命を憎く者でなければイエス様の弟子ではありません。イエス様よりも大事にするものをもつなら、イエス様の弟子ではあり得ないとの教え。
  • 私たちが何を大事にしているかという優先順位が問われています。
  • (御子)イエス様の弟子になるなら、それだけでなく、自分の持ち物を一切捨てなければならないと教えられる。
  • 私たちは日々の生活をしており、生活に必要な持ち物がある。自分の持ち物である。日々の生活をしながらイエス様の弟子となるのは、不可能に思える。
  • 文字通りにイエス様の教えを解釈すると、イエス様の弟子になるには、修道院に入るなど、世俗の生活から離れなければならないように思えてくる。これはイエス様の教えではない。
  • 要は、家族に対する執着、財産に対する執着などがイエス様に従うことを妨げるようなことがあってはならないとの教えであると考えます。もし執着を言うなら、自分の地位、自分の名誉など目に見えないものも含まれます。
☆神が求める私たちの生き方
  • (教え)イエス様の弟子になるなら、一切の執着を捨ててイエス様に従うことが求められます。
  • (警告)塩が塩気を失って役に立たないものになってしまいますが、弟子としての歩みをないがしろにして弟子とは名ばかりの信仰者になってはいけないとの警告がなされます。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様の教えは、かなり厳しいものがあります。群衆にこのような教えをなぜなさったのか、疑問にさえ思います。群衆はイエス様の教えを聞いて、イエス様から身を引いてしまうのではないでしょうか。家族とか財産に対する執着を捨てるというのは、修行をしている人なら当てはまるかもしれませんが、普通の生活をしている人にとってはむずかしいです。イエス様を第一にしたいとの思いがなければ、むずかしいです。
  • イエス様は、ご自分について来る群衆に信仰の決断を迫っているのかもしれません。イエス様について行けば、奇跡を見ることができるとか、野次馬根性でイエス様について行く人が群衆には多いことと思います。イエス様は自覚的にイエス様について行く生き方をする人を求めておられると思います。
  • 教会の礼拝に集う信仰者は、イエス様の弟子との自覚を持っているのでしょうか。もしかしたら、イエス様は、私たちにむかって「あなたたちは私の弟子ではない」とおっしゃっているかもしれません。とすれば悔い改めた必要です。
  • 私はどうなのでしょうか。イエス様の弟子になろうと努力してきました。家族に対する執着、物、財産に対する執着はないとは言えませんが、イエス様に従うことを妨げるほどの執着はありません。イエス様から見て弟子として十分な歩みをしているとは思いませんが、それでも私は弟子として歩んできたと思っています。牧師としての務めを離れ、ひとりの信仰者として生きる日々の中で、どのように主の弟子として歩んだらよいのか、と問われます。自分がイエス様の弟子としてのアイデンティティーを持ち続けるとしたら、それは聖書を読むこと、ディボーションをすることにあると考えます。聖書を読むことからすべてが始まります。
  • 先週から今週にかけて、用事が重なり、ディボーションをする時間がとれませんでした。週に三回は、ディボーションをしたいと思います。今週は明日しかありませんが、明日もデボーションをします。
☆与えられた導き
  • 明日もディボーションをする。