ルカ福音書 13章10~17節

2018年9月21日

(内容)

  • イエス様は安息日に会堂で、18年も腰の曲がり伸ばすことのできない女性を癒やした。すると会堂長はいやしは、安息日以外に行うべきだと言って、イエス様を批判しました。主イエスはその批判に対して、偽善者よ、あなたも同じことをしているのではないかと逆に批判しました。反対者はみな恥じ入りました。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)イエス様は人のことをよく見ておられます。律法を守る人たちの守り方が自分に都合のよい守り方であることを見抜いておられます。人は自分だけは正しいとの独善に陥りやすいこと、しかしイエス様はそれを見抜く方であることを知ります。
  • (御子)12節。イエス様は憐れみ深いお方です。腰の曲がった女性はイエス様にいやしを求めていたわけではありません。イエス様は憐れみに駆られ、いやされたのだと思います。彼女にとっては思いがけないいやしでした。神の恵みが突然彼女に降り注いできたのです。
  • 私たちにも思いがけず、神の恵みが降り注ぐことがあります。見過ごしていたら、神さまに申しわけありません。思いがけない神さまの恵み、思い出せるものがあるだろうか。
☆神さまが私たちに求める生き方
  • (勧め)17節。人々は恥じ入ったとあります。ためらわずに悔い改めるべきことを教えられます。
  • 恥じ入るということは、自分に正すべきことがあるということです。私たちは恥じ入ることがあっても、心の中に隠し、何もなかったかのように過ごしてしまいます。そのようなものがあることは人に知られないようにしています。それでいいのでしょうか。
  • (警告)自分は正しく生きている、そう思っていても抜けがあるものです。しかし人はなかなかそれに気づきません。だから私たちは聖書を読み、聖書を鏡として自分の心を見るべきです。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父、今日もディボーションをすることができ感謝します。今日心に残ったのは「恥じる」ということです。私にも恥じるこころがあり、これをうやむやにしてきたことを思います。
  • 聖書をどう読んだらいいのか、これについてはディボーションを知り、聖書の読み方を学びました。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ことが身につきました。この読み方を教会員にも教えることができました。本当に感謝なことです。問題は祈りでした。こうすればよいという祈りを模索し続けました。自分にとって祈りはこれでよい、という祈りをしたくて祈りの本も何冊も読みました。忙しければ祈りを後回しにしたこともありました。祈りができていないとの思い、恥じる思いを長いこと抱いてきました。
  • 牧師を引退し、ある時決心しました。祈りを最優先にすることに決めました。引退したとは言え、しなければならないことがありますが、優先順位を変えました。そして今振り返ると、祈りについて、これでいいのだ、という思いがあることを知りました。祈りを最優先にする生活、それが祈りについての答えでした。
  • 天の父、イエス様が憐れみ深い方であることを思わされました。わたしが憐れみを抱き、誰かのために行動しようとしても、イエス様のようにその人の問題をぱっと解決することはできません。しかし憐れみの心を発揮することは大切だと教えられました。私には気になる教会がいくつかあります。それらの教会を覚えて祈ってはいますが、もう少し具体的に祈りたいと思いました。何が問題なのかを神さまに告げて導きを願うことにします。
☆与えられた導き
  • 祈り関する導きを感謝する。
  • 気になる教会のために具体的に祈ることとします。具体的な祈りを文章にしてみます。