ルカ福音書 13章1~9節

2018年9月19日

(内容)

  • ピラトによって殺された人たち、シロアムの塔が倒れたとき死んだ人たちがいました。イエス様は、人の死の罪との因果関係を考えることを否定し、各自が悔い改めることの必要性を教えられました。

(聖書に聞く)

☆神さまはいかなる方か
  • (御父)3,5節。父なる神は、罪を嫌われ、最後まで悔い改めない者を滅ぼされます。
  • (御父)8節。父なる神様は、私たちが悔い改めるのを待っておられる方です。すぐに裁く方ではありません。
☆神さまが私たちに求める生き方
  • (勧め)3、5節。悔い改めること。
  • (教え)イエス様は、災いと罪との因果関係を否定されます。人が災難に遭うのは、その人が罪を犯したからと考える人々がいましたが、イエス様はそのような考え方を否定されました。

(黙想)

  • 人は自分がよくやって生きていると考えるものです。悔い改めなさいと言われても何のことかわからないというのが現実です。そのような中で、人々を悔い改めに導くのは簡単なことではありません。
  • しかし考えるべきは自分です。神を信じる者としての自分の歩みはどうなのか、自己吟味が迫られます。神さまの前に自分がどのような歩みをしているかの吟味です。何か悪いこと、間違ったことを悔い改めるということだと、長年信仰生活をしていると、悔い改めることはないと考えてしまいがちです。聖書に登場するファリサイ派や律法学者の人たちがそうでした。私自身もそうでした。
  • 大事なのは、自分の心が神さまの方を向いているのか、ではないかと思います。私たちの心のあり様です。悪事はしなくとも、神さまのことを忘れて生きているとすれば、それは神さまの目に罪だと思います。私たちが神さまとの交わりに真摯に生きているかどうか、その吟味をイエス様は教えているように思います。
  • 何を大事にして生きているのか、生活の優先順位を吟味することは大切です。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日は悔い改めるべきことを教えられました。礼拝に出席し、自分の罪を思い知らされて洗礼に導かれたこと、牧師になってから自分は頭のてっぺんから足のつま先まで罪で満ちていると思わされたことがありました。やがて自分は信仰者としてよくやっているのではないかと考えるようにもなりました。それは、悪い「こと」をすることが罪だと考えていたからであると悟りました。やがて神さまとの交わりに生きている自分の心のあり様こそ問題であることを知りました。神さまと関わることをないがしろにし、自分のことにのみ、心をもちいることが罪であり、自分の心のあり様こそ、悔い改めるべきことを知りました。それ以来、自分はよくやっていて悔い改めの必要を感じない、というようなことはなくなりました。
  • 牧師を引退して、ひとつ生活をあらためました。祈ることを最優先にすることです。牧師として現役で働いているとき、なすべきことがいくつもあり、祈りが後回しになることがしばしばで、それではいけないと思っていながら、なかなかあらためることができませんでした。悔い改めるべきことを知りつつも、それができない自分がいました。引退した今、しなければならないことは多くありますが、負うべき責任が少なくなったこともあり、思い切って祈ることを最優先にする生活をすることにしました。これが段々習慣化してきたことを感謝します。ひとつのことを悔い改め、新しい自分になって生きることができるのは幸いなことですね。
  • 祈る中で、祈りが聞かれないことに空しさを感じることがないとは言えません。世界の平和、戦争の終結を願っても、パレスチナ、シリアでは、平和がきそうにもありません。日本の政治のために祈っても、現実はなかなか変わりません。不誠実な政治家が権力を握り、権力者におもねる政治家が多く、国民のために成る政治を本当にしてもらえるのか、と疑問を抱きます。そんな中で、自分の祈りが聞かれるか否か、それを問題にするのはいけないと知りました。それは自分を第一にしていることと知りました。祈るべきことは祈り続ける、祈ることが大事であると知らされました。結果を気にするのは、自分が祈っているという自分が表に出てきているのですね。そのことに気づきました。最近の悔い改めです。これからも忍耐強く祈り続けます。
(与えられた導き)
  • 明日も、忍耐強く祈ること。