ルカ福音書 10章21~24節

2018年7月10日

(内容)

  • イエス様は、これまでの宣教の結果を思い、父なる神をほめたたえています。宣教の結果、受け入れる人もいれば、受け入れない人もいます。受け入れる人がいたことのゆえに、神をほめたたえています。
  • 福音を受け入れることについては二つの面があることを知ります。一方で、神さまが福音の意義を隠し、あるいはお示しになるので、人は信じ、また信じないことが起きることです。しかし知恵ある者や賢い者は、神の国の福音について、自分の考えによって受け入れないことがあり、幼子は素直なので信じるという面があります。
  • 信じるという行為は、神の導きという要素と、受け入れるかどうかを決める人間の判断、選択という両面があることが分かります。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)21節。御子は聖霊によって喜びにあふれる方です。
  • (御子)21節。神の国の福音は、それを聞いた人を信じる者と信じない者に人を分けます。これは御心に適うことだとイエス様は父なる神をたたえました。イエス様は、信じる者と信じない者がいることを当然と考えていることが分かります。
  • 伝道とは、相手を信じさせることではなく、福音を伝えること、証しをすることであると知ります。相手が信じるには、神さまの導きが必要であり、相手が心を開くことが必要です。伝えた後は祈ることです。しかし祈るだけで伝えないのは、伝道としては不十分だと思います。
  • (御子)22節。父なる神を知るのは、御子と弟子たちが宣べ伝えたことを信じる人だけであると語り、イエス様が信じる者と信じない者がいることを当然と考えていることが繰り返されています。
☆神が求める私たちの生き方
  • (教え)21節。聖霊によって与えられる喜びがあることを知ります。聖霊の働きを見る喜びです。
  • 聖霊の導きによって聖書を読むことができる、信仰者の基本的な喜びです。
  • 聖書によって励まされ、慰められ、教えられ、悔い改めに導かれる。これらも聖霊の働きとして喜ぶことができます。腑に落ちるごとくに聖書が分かることも聖霊の働きで、これを喜ぶことができます。
  • (教え)24節。神が示されたことを信じる人は幸いである。
  • ・弟子たちが見たもの、それは神の国の現実です。病人がいやされ、悪霊が追い出され、神さまの御支配が目に見えるように現れている現実です。それはイエス様がなさった業であり、弟子たちはそれを見ました。イエス様によって派遣された弟子たちは、イエス様と同じ業を行いました。この神の国の現実を見る目は幸いだとイエス様は語ります。多くの預言者や王たちは見たくても見ることができなかったからです。
  • しかし同時に、イエス様のわざを見ても信じない人たちがいたことも事実です。そこでイエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と語られています。
  • 信じる時には、疑いもつきもので、確かなこととして信じたいとの思いが私たちにはあります。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父、あらためて、謙遜に、素直に信じることの幸いを思います。でもそれは、盲目的に信じることではなく、神さまに対する信頼があることを思います。創造主なる神、救済者なる神、私たちを生かし導く神への信頼が大切であると知ります。あなたに信頼するから、あなたの言葉に信頼します。あなたの言葉に信頼することは、あなたを崇めることであり、あなたに栄誉を帰すことであると知ります。
  • 先週末から、西日本豪雨のために沢山の方が亡くなりました。先週は、オーム真理教の元死刑囚の死刑執行が報じられました。落語家の桂歌丸さんの死も報じられました。日々の報道でさまざまな死が報じられます。死が日常的な当たり前の出来事であるとのメッセージが繰り返し押し寄せてきます。
  • たしかに他人の死は、日常的かもしれません。でも自分の死は日常的なものではなく、自分の死を考え、生き方を考えることは大切だと思います。死を思うから、生きることを考えます。死を考えなければ、人は食べて、寝て、死んでいく人生を生きることになるのではないでしょうか。
  • 死を考えたから、死の恐れに捕らわれたから、私は信仰に導かれました。そして生きることを聖書から教えられました。感謝します。私たちには、死に打ち勝ったイエス様がおられ、復活の希望、御国に迎えられる希望が与えられていることをうれしく思うものです。
    私たちに許されているのは信じることです。永遠の命を約束を信じることが許されています。そして人間の心には、希望が確かであることを願う心があり、確かさを求める心があります。信じることと確かさを求めることの葛藤が心の中にあります。
  • 年配の信仰者が永遠の命の希望について「信じるしかない」と話されたことが心に残っています。私たちは信仰者であり、信じる者ですから、確かさを求めることには限界があります。しかし「信じるしかない」ではなく「信じることができてうれしい」という状態になりたいと思います。多分それは、さらに聖書を深く読むことによって可能なのだと思います。私は伝道者ですので、説教をし、聞き手に「信じることができてうれしい」と言ってもらえるようになることを願います。
  • 神さま、一つ思い出しました。宗教改革者ルターは、あなたを真実な神と信じ、あなたの言葉を信頼することは、あなたに栄誉を帰すことだと語っています。自分に目を向けていると、どうしたら確かなこととして信じることができるのかと考えますが、確かなこととして信じることは神さまをたたえることになると考えたら、別な解決があるかもしれませんね。
  • 7月22日の説教は「信仰によって義とされる」ことを語る聖書箇所を選びました。神さまを真実な神とするという視点をもって、聖書を読み、説教してみたいと思います。また「信じるしかない」ではなく、幼子のように素直に信じ、「信じることができてうれしい」と告白できるように導いてください。
(与えられた導き)
  • 今日から、説教テキストを読み始める。
  • 幼子のように素直に信じる信仰を与えてくださいと祈る。