ルカ福音書 9章28~36節

2018年6月15日

(内容)

  • イエス様は弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に行き祈りました。祈っているうちにイエス様の顔の様子が変わり、弟子たちが見ると、モーセとエリヤとイエス様が「最後」について、つまり十字架の死について話し合っていました。やがて弟子たちは雲に包まれ、「これはわたし子、選ばれた者、これに聞け」との声が聞こえました。

(黙想)

  • イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いました。そしてペトロは、「神からのメシアです」と信仰の告白をしました(9:20)。するとイエス様は「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とお語りになりました。そして今日の聖書で、神さまは弟子たちに「これはわたしの子、これに聞け」と命じ、イエス様が神から遣わされた方であることを弟子たちに告げました。この出来事は、三人の弟子にとっては忘れがたい出来事だと思います。イエス様が救い主メシアであるとの確信が与えられたと思います。しかもこれは神ご自身からの天来の声による確信です。弟子たちにとって、イエス様について行く以外の道を歩むことはできなくなったと思います。日々自分の十字架を背負うかもしれませんが、恵みの道を歩むことになると思います。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)35節。イエス様は神の子であり、救い主です。神ご自身が証言しました。
  • (御子)30-31節。イエス様は御自分の最後を見据えて生きる方です。
    • イエス様はモーセとエリヤと「エルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」とあります。イエス様は、弟子たちに予告したように、エルサレムにおいて長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるのです。それが何のためであったのか。モーセとエリヤを話し合っていました。イエス様がご自分の死が神の御心によるものであることを見据え、十字架に向かって歩みます。
    • 私たちにも最後の時が訪れます。私たちの死には、イエス様のような救いの出来事という意義はありません。生涯の終わりを迎えるだけです。その生涯の終わりにおいても、終わりだからこそ、私たちはイエス様の証しをすることができるのではないか。私たちもまた、自分の死を見据えて生きることができると信じます。
  • (教え)私たちには、神との関係で、忘れがたい大切なことがあります。
    • イエスと一緒に山に行った三人の弟子たちは、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」との声を聞きました。神ご自身が弟子たちに語りかけました。イエス様がメシアであると、啓示されたのです。おそらく弟子たちには忘れがたい出来事であったと想像します。そして弟子たちは、イエス様を宣べ伝える者とされました。これを弟子たちは喜び、使徒としての生涯を送ったことと思います。
    • 私にも忘れがたいことがあります。洗礼を受ける前、自分の罪を知らされました。そして赦しをいただいて生きるべく、洗礼を受けました。牧師になってから、自分を守るために嘘をつきました。その時は、嘘をついたことに気づきませんでしたが、その日のうちに気づきました。自分は頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、罪の塊であることを思い知らされました。たとい神が存在しないとしても、私は自分が罪人であるとの確信は消すことはできません。幸いに、イエス様を信じ、赦しの恵みをいただき、これまで生きてきました。
    • さらに聖霊なる神さまが、イエス様のおっしゃるとおり、私のうちにおいでになることも神さまから教えていただきました。これらは皆、忘れがたい神さまの出来事です。

(神の導き)

☆祈り
  • イエス様は、ご自身の最後について、モーセをエリヤと話し合っていました。モーセは律法、エリヤは預言を象徴し、イエス様は旧約聖書の待ち望むメシア救い主であることが分かります。イエス様は御自分の死を見据えてこれから歩みます。そして三日目の復活を信じておられます。
  • 私たちにも最後の時が訪れます。私たちの死には、イエス様のような救いの出来事という意義はありません。あなたによって与えられた命の終わりが来ます。その生涯の終わりにおいても、終わりだからこそ、私たちはイエス様の証しをすることができるのではないかと思います。私たちもまた、自分の死を見据えて、復活を信じて、終わりの時を迎えることができると信じます。自分の死が迫ったとき、イエス様のように自分の死を見据えて、復活を信じて生涯を閉じるとの思いを伝えることができたら良いなと思いました。終わりの時の迎え方として、心に刻みたいと思います。
  • また雲の中からの神の声を弟子たちは聞きました。これは彼らにとって神との出会いと呼ぶべき貴重な体験でした。弟子たちの今後の歩みに対して大きな影響を与えることと思います。私自身も自分の罪を思い知らされる経験をしました。思いがけないあなたの導きであったと信じます。目に見えない神をどうしたら信じることができるのか、そんな思いの中にいた私をあなたは信仰へと導いてくださいました。さらに自分の罪深さを知らされ、新しい人間として生きるようにあなたは導いてくださいました。あなたの救いを改めて感謝するものです。
  • 天の父、今日は終わりの時の迎え方としての思い、救ってくださった感謝を歌(短歌)にしたいと思います。
☆与えられた導き
  • 信仰者としての思いを短歌にして表す。

主に倣い 復活見据え 死に向かう
その日が来ても 恐れはあらじ

わが身には 神の残せし 傷跡が
汝(なれ)は罪人 汝(なれ)は神の子