ルターが語る聖書の読み方(1) 祈り

宗教改革者のマルティン・ルターは、神学研究の正しいあり方と方法を語る時、聖書を以下に読むかを述べています。3つの原則を提示しています。3回に分けて紹介します。第一の原則は、祈りです。以下、本文。

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私はあなたに神学研究のための正しいあり方と方法とを示したい。なぜなら、私もこの訓練を受けたからである。そしてこのあり方と方法というのは、疑いもなくすべての族長や預言者たちも保っていたものだが、聖王ダビデが詩編119で教えているものである。そこであなたは、この詩編全体をとおして、十分に示されている三つの原則を見いだすことであろう。それらは祈りと黙想と試練とである。

第一に、聖書は他のすべての書物の知恵を愚かにする書であることを、あなたは知るべきである。なぜなら、永遠の生命について教えているのは、この書以外にないからである。だからあなたは、自分自身の考えや理解にまったく失望すべきである。自分の考えや理解ではあなたは聖書を把握することはなく、かえってそのように思い上がるとあなたは自分自身も、また自分もろとも他人も、ルシフェル(イザヤ14:12)に起こったように、死から地獄の深遠に突き落とすことになろう。むしろ、自分の部屋でひざまずいて、神に対する正しいへりくだりと正しい真剣さとをもって、どうか神が愛するみ子をとおして聖霊を送り、あなたを照らし、導き、理解を与えてくださるようにと、祈るがよい。

あなたが読むとおり、ダビデも先にあげた詩編(119:26以下、33以下)でいつも、「主よ、教えてください。諭してください。導いてください。示してください」とか、その他もっと多くのそうしたたぐいの言葉を用いて祈っている。彼はモーセや他の諸書の言葉を知っていたし、毎日聞いても読んでもいたのに、理性でこれに向かわず、自分からその教師になろうとしないで聖書自身の正しい教師を持とうとしている。理性で聖書に向かい、自分で教師になろうとすれば熱狂主義者となる。こういうたぐいの人は、理解するのに聖霊も祈りも必要でないようなマルコルフやイソップの童話でもあるかのような工合に、聖書は自分たちに服した、容易に理性で把握できるものと夢想するのである。

(世界の思想家5『ルター』徳善義和編、p54~56)より