ローマ 7章 18~24節 罪の法則
2024年 2月8日
(内容)
- 善をなそうと思う自分にはいつも悪がつきまとっているという法則がある。
(黙想)
- パウロはここで善を行おうとしても、それを行えず、かえって逆のこと、自分が望まないことをしている自分がいることを認める。自分には善を行おうとする意志があるのにそれができない現実がある。なぜそうなのか、パウロは原因を探る。
- パウロの答えは、自分の内に罪が住んでおり、この罪が善を行おうとするわたしを邪魔し、善を行えないようにし、善と反対の悪を行わせていると語る。善を行わないのは、わたしではなく、罪が善とは逆のことを行わせていると語る。
- これについては、「わたし」は罪の奴隷であり、罪に売り渡されているとも表現している。21節ではさらに、善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気づくとパウロは語る。罪の法則である。
- 23節では、「心の法則」と「罪の法則」のあることを語る。「わたし」は善を行いたいと考える、これが「心の法則」である。しかし善を行えないという「罪の法則」がある。「わたし」は「罪の法則」のとりこになっている。「内なる人」とあるが、これは「わたし」のことである。善を行いたいと考える「わたし」である。しかし望む善を行うことができない。
- なぜこのような事態に陥ったのか、パウロはさらに追求する。「わたし」には心と肉体がある。パウロは「五体」を語る。この五体とは、「わたし」の心と肉体を指す。この心と肉体は罪が働きかける拠点である。「わたし」は肉体を持つので、肉体があるために生じる欲がある。「わたし」は心を持つゆえ生じる欲がある。罪はこの欲に働きかけ、「わたし」に罪を犯させる。肉体があるゆえに情欲が生じる。心があるゆえに高慢になったり、富への欲が生じたりする。
- 「わたし」が罪を犯すことについて、「わたし」が罪の奴隷であり、罪に売り渡されているからだと語る。「わたし」が望まない悪を行うのは、罪が行っているのであると語る。このような事態に対して、善を行いたいという「わたし」に対して、悪がつきまとっている法則があると語り、わたしは「罪の法則」のとりこになっているとパウロは語った。
- 次の24節では、「わたし」は何とみじめな人間なのでしょうと嘆く。パウロは罪を犯す人間の現実を厳しく描く。神の戒めはむずかしくて実行できないなどという自己弁明は罪の奴隷であることを物語る。このようなみじめな状況にあることを認めるところから、道がひらける。
- けれども多くのキリスト者は、道が開かれることを知らない。それは自分の惨めさと直面しようとしないからではないか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>罪の法則のあることを認める。罪の法則のとりこになっている自分を認める。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日の聖書の箇所を読み、パウロが語っていることを多くのクリスチャンに知って欲しいと願います。何らかの形で、ブログに書くことができたらと思いますし、また機会があれば、説教できたらとも願います。パウロが書いていることが福音として、諸教会で広く知られるように祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- パウロの語る福音が諸教会で広く知られるように、祈る。
- パウロの語る福音としてまとめる。