第一コリント 15章1~2節 何からの救いか
2021年4月16日
(内容)
- パウロはコリント教会に自分が伝えた福音を思い出させようとしている。何よりも福音は私たちを救う。
(黙想)
- パウロは福音はキリストの十字架の死と復活であると語る。パウロはこの手紙の1章で、「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と語る(17節)。福音を伝えるとは何よりもキリストの十字架を伝えることであることが分かる。この十字架は滅んでいく者には愚か者であるが、救われる者には神の力と語る。また十字架のキリストはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かなものとも語る。
- この十字架のキリストについて、直接的にはこの手紙では語られない。パウロがコリントに行って福音を語った時は、キリストの十字架、十字架のキリストを語ったはずである。だから15章の2節で「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか覚えていれば」と語る。
- 私たちはパウロがローマの信徒への手紙3~8章で書いたことを思い出せばよいのかも知れない。
- 私たちは福音によって救われる。あらためて救いとは何かを考える。救いとは何か分かったつもりで毎日を生きているが、立ち止まって救いを考えるのはよいと思う。パウロはこの手紙の1章でこう語る。
1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
- 救いとは滅びからの救いであることが分かる。神の力が私たちを滅びから救い出す。パウロはこの手紙の最後で「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」と書いている。ここで神から「見捨てられる」とある。聖書は滅びの内容を具体的には書かない。それは分からないからと思われる。しかし聖書は、神に見捨てられることが滅びであることを示唆している。イエスも十字架で、人類の罪に対する神の罰を受ける中で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた。
- 滅んでいく者にとって、彼らは神を信じないのだから、神に見捨てられることが滅びだと語っても、彼らには、愚かなたわごとに思えるだろう。コリント教会には、様々な問題が起きていて、それら一つ一つにパウロは助言を書いた。救われるとはどういうことなのか、知って欲しかったのだと思う。またパウロはコリント二でこう語る。
二コリ 2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
二コリ 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
- キリストを信じない者が「滅びの道をたどる者」と言われている。信じる者には、福音を告げ知らせるパウロたちは「良い香り」という。信じる者には命に至らせる香りであり、滅び行く者には、死に至らせる香りだという。
- 僕は自分が救われた者であると信じている。滅びから救われたとの記述をどう思うか。キリスト者にとって生きるとは、救いの道をたどることであり、この世の歩みを終えた後は、神の国に迎えられる、これが最終的な救いである。信じない者は、滅びに至る道を歩み、この世の歩みを終えた後は、滅びの中に入れられる。つまり神に見捨てられる。これが滅びである。
- 救いの道をたどるとは、救われた者として生きることであり、最終的な救いを目指して生きることである。最終的な救い、それは神の国に迎えられることである。神の国にはどのような人たちがいるのか。聖書によれば、イエス・キリストと同じ姿の人がいるという。
3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
- とすれば救いの道をたどるとは、キリストを同じ姿になることを目指して生きることとなる。ヨハネの手紙にはこうある。
3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
- 自分を清めることが救いの道を辿ることになる。僕としては救いの道をたどって生きていると思っている。
- 滅びとは神に見捨てられることであるとするなら、見捨てられたと感じる人はどんな思いを抱くのだろうか。旧約聖書では、イスラエルの民が神を見捨てて、偶像礼拝をしている。やがてイスラエル王国は神に見捨てられ、滅びている。
- 死の恐怖とは、神に見捨てられる恐怖をいうのではないか。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>福音によって私たちは救われる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、最近「救い」を考えさせられます。何からの救いかと言えば、それは滅びからの救いですね。でも滅びとは何か、具体的には分かりません。ただあなたに見捨てられることが滅びなのだと聖書から教えられています。神を信じない人には、神に見捨てられることなんて、どうでもいいことになります。この世の多くの人々は「死んだら天国に行ける」との悪魔の嘘を信じさせられているように思えます。
- 何から救われるのかをあいまいにしておくと、伝道はむずかしいのではないかと思います。5月に説教奉仕の依頼があり、何を説教するのかを祈ってきました。ここに来て、「滅びからの救い」と題して説教をしたいとの思いに導かれました。滅びとは、あなたから見捨てられることと信じます。そして人間は、自分の方からあなたを見捨て、あなたなしに生きています。あなたなしに生きているので、あなたの見捨てられることがどういうことか分からず、あなたなしに永遠を生きることへの恐れも持っていません。
- あなたに見捨てられることについて、聖書を調べ、滅びを語り、救いを語ることが出来るようになればと願います。導いてください。
☆与えられた導き
- 聖書で「見捨てられる」ことを調べる。