第一コリント 11章2~16節 神の栄光を現すキリスト者
2020年12月11日
(内容)
- 礼拝において男は物をかぶらず、女は物をかぶるようにとの指示。パウロはこれを深い視点から考える。
(黙想)
- 礼拝の中で祈りあるいは預言するときのかぶり物の問題。コリント教会の礼拝で何が起きていたのかは不明である。何か秩序が乱れるようなことがあったのかもしれない。礼拝のときの服装については、13節にあるように自分で判断すればよいと思う。
- パウロがかぶり物という具体的な問題を考えるときに考える手がかりとして書いたことは注意しなければならない。「あなたがたに知っておいてほしい」(3節)とパウロは言う。「男の頭はキリスト、女の頭は男、キリストの頭は神である」。このことを根拠にパウロは、かぶり物の問題について指示を与えている。
- かぶり物に関することは現代の私たちには関係ないと言ってよい。礼拝のときの服装などについては、礼拝におけるふさわしさを考えればよいと思うし、各自で判断すればよい。ここでパウロが語る「頭(かしら)」についての言明は注意しなければならない。
- 聖書は「交わり」を大切に考えている。この交わりは人格を持つ者同士の交わりであり、基本的に対等である。「女の頭は男」という時、それは上下の関係を述べたものではない。女も男も互いに対等の関係で交わる。一方が相手を支配するような関係での交わりを聖書は教えていない。神と人間の交わりも対等である。対等ということは自由であるということ。
- 対等ではあるが、男は女ではなく、女は男ではない。ちがうもの同士が交わりを持つ。キリストは男ではなく,男はキリストではない。キリストは父なる神ではなく、父なる神はキリストではない。互いにちがうものが交わる時、自分がどのような立場として相手に関わるのか、が問題となる。キリストは父なる神に従うというかたちで父なる神との交わりを持つ。エフェソ書の結婚についての教えでは、妻は主に従うように夫に従うこと、夫はキリストが自分を与えたように妻を愛し、自分の体のように妻を愛することが教えられている。相手との関わり方が立場によって違ってくる。
- それは自分が何者であるかを知るように促す。自分が男であると知れば、キリストを頭とする関わり方をするし、女に対しては頭として振る舞う。神が求める男のあり方、女のあり方に生きるのである。キリストは子として父なる神に従う。
- 自分が何ものであるかを受け入れる、それは信仰となる。そしてそのようなものとして生きる、それが信仰である。神から与えられたアイデンティティーに生きることの大切さを教えられる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>キリストの頭である。
- <御子>男の頭である。
☆神が求める私たちの生き方
- <教え>自分の立場、アイデンティティーを知って生きること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日は大切なことを教えられました。この教えでも、信仰者としての自分のアイデンティティーを知ること、そのアイデンティティーに従って生きることを教えられました。そのことを思う時、私にとって神の栄光を現すという信仰者の生き方が課題であることを思います。昨日の聖書では、食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を現すようにしなさいとありました。
- どのようにして神の栄光を現すのか、このテーマを課題としていきます。まずは神さまの導きをお祈りします。
☆与えられた導き
- 神の栄光を現す信仰者の生き方を自覚的に歩むためにまず導きを祈る。