ルカ福音書 23章39~43節 憐れみに富むイエス

2024年3月21日

(内容)

  • イエスと一緒に十字架につけられた一人に対して、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られた。

(黙想)

  • 十字架につけられたイエスは、最高法院の議員たちから、またイエスを十字架につけた兵士たちから、そして一緒に十字架につけられた犯罪人の一人(犯罪人A)から、侮辱された。するともうひとり一緒に十字架につけられた犯罪人(犯罪人B)が、イエスを侮辱した犯罪人Aをたしなめた。そしてイエスに、御国においでになる時、私のことを思い出してくださいとイエスに願った。これを読む時、いくつか疑問が湧いてくる
    1. 犯罪人Bは犯罪人Aに「お前は神を畏れないのか」とたしなめた。犯罪人B自身は神を畏れる人だったのか、否か。神を畏れる人ならなぜ、死刑になるようなことをしたのか。神を畏れていないなら、なぜ「お前は神を畏れないのか」との言葉がその口から出てきたのか。
    2. イエスについて、犯罪人Bは「この方は何も悪いこともしていない」とどうして言えたのか。イエスのことをどれほど知っていたのか。十字架にともにつけられた時、初めてイエス様と出会ったとして、どうしてこのようなことが言えたのか。
    3. 「イエスよ、あなたが御国においでになる時は」という発言をどうして言えたのか。イエスが御国に行くとどうして知っていたのか。
    4. そもそも十字架上のこのようなやりとりが、なぜ伝えられたのか。二人とも十字架で処刑されて死ぬ。誰がこのやりとりを聞いて伝えたのか。復活したイエスが弟子たちに伝えたのか。それとも十字架のそばにいたローマ兵士がこのやりとりを聞いて、伝えたのか。
    5. 犯罪人Bは、一緒に十字架につけられたイエスを周りにいる人たちが侮辱するのを聞いた。一体、この人は何者なのか、との疑問を持ったはずである。しかも「メシア」という言葉を聞く。さらに人々が「自分を救ってみろ」とイエスを侮辱しているのを聞く。そしてイエスを見る。
  • 犯罪人Bには、イエスが死刑に値する犯罪を犯したとは見えなかったし、神を語り人々を惑わした人物にも見えなかったと思われる。むしろ人々が「メシアなら自分を救ってみろ」とののあざけりを聞いて、イエスがメシアに思えたのかも知れない。
  • 犯罪人Bはなぜ、御国について語ることができたのか、分からない。彼は自分が死刑で死ぬことを知っている。彼が自分が死んだらどうなるのか、どんな考えを持っていたのか分からないが、イエスに救いを求めた。「わたしを思い出してください」。彼の精一杯の救いを求める言葉と考える。イエスはそれに応えた。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。
  • イエスはこの犯罪人Bの言葉の中に悔い改めを見たと言える。イエスは彼の救いを求める言葉に応えられた。憐れみと慈しみに富むイエスを見ることができる。救いを求める気持をイエスは軽んじない。
  • ルカ福音書はこれを読む人のために書かれた。読んで色々な疑問を感じるが、大切なことはメッセージを汲み取ることである。私はイエスが正しい人であることを知っている。イエスが死者の中から復活し父なる神のもとに帰ることを知っている。イエスが私たちを御国へ招いておられることを知っている。犯罪人Bの言葉の中に、悔い改めと救いを求める思いを見た主イエスを彼は楽園に招く。主イエスの憐れみ深さを見る。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>憐れみに富む方。悔い改める者の願いを聞いてくださる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>罪を悔い改めること
  • <勧め>イエスを信じること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
  • 主イエスは神であるのに人となられました。自分を嘲り、侮辱する者たちに怒ることなく憤ることなく、神の御心に従うべく、十字架の死に直面しようとしています。
  • 一緒に十字架につけられた犯罪人Bの願いを聞き、「今日、わたしと一緒に楽園にいるだろう」と救いに招かれました。主は彼の犯罪人Aとのやりとりを聞いておられました。彼が自分の罪を認めていること、そしてイエスが御国に入ったら、私のことを思い出してくださいとの言葉の中に、謙遜な気持を汲み取られました。そして「あなたは今日わたしと楽園にいるだろう」と救いを約束してくださいました。
  • 私もまた救いに値しない者ですが、この主イエスに招かれて信仰者となり、御国の希望を与えられていることを感謝します。主イエスを通して救いに招いてくださったあなたをあがめます。
☆与えられた導き
  • 救いを感謝し、神を崇める祈りをする。