ルカ福音書 23章32~43節 主イエスの愛と従順
2024年3月19日
(内容)
- 十字架につけられたイエスは、人々からののしり、侮辱を受けられた。しかしそのような者たちのために赦しを神に願われる方であった。
(黙想)
- 十字架の場面の特徴は、イエスが人々から侮辱されたことである。最高法院の議員たちは「他人は救ったのだ。神からのメシアなら、自分を救うがよい」と言って、イエスをあざ笑った。
- 主イエスを十字架につけたローマの兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱した。十字架につけられた犯罪人の一人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしったとある。
- 人間というのは自分に対するこのような嘲り、罵り、侮辱に対しては憤りを覚えるものである。そして敵意、憎しみを覚えるものである。しかしイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈っている。
- 人間は自己中心という立場に立っている。そこからイエスをののしり、あざ笑い、侮辱する。しかしイエスは、愛という立場に立つ。自己中心の立場に立つ者たちの罪に怒り、これを責めることをしない。むしろ罪の中にある者への憐れみから、父なる神の執り成しの祈りをしている。
- ゲッセマネの園で、この杯を取りのけてくださいと祈られたイエスであるが、神に御心を行ってくださいと祈り、その御心に従うことにしたイエスは、神と心を一つにする。つまり罪を犯し人間を救うという神と心を一つにし、人間を救うために自分が果たすべきことを果たす。この場面では、人々のなすがままに身をゆだね、死ぬことが神の御心である。
- このようなひどい仕打ちに遭うことを神の御心としてイエスは受けとめる。主イエスは活動の最初荒野で悪魔の誘惑を受けた。悪魔はイエスに世界のすべての国々を見せ、言った「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」。イエスは今、一切の権力と繁栄とは、全く反対のところにいる。全く無力であり人々の侮辱と受けている。
- 悪魔の声に従っていれば、こんな目に遭わないで済んだのにとは、イエスは勿論考えない。神の御心を果たす中で、今の自分があること、今の状況のあることをイエスは受けとめる。それは人類の救いのため、そして私の救いのためである。
- 死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況があるが、イエスはなお神に従順に歩まれた。人々の侮辱・ののしり・嘲りは、イエスにとって神に従順に生きることの妨げにはならなかった。神に対してイエスは徹底して従順に生きられた。僕にもこの徹底さが必要なのかも知れない。信仰に生きることを徹底すること。パウロはロマ書を書いた時その出だしで、自分が福音を伝えるのは信仰の従順に導くためであったと書いている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人々のののしり、嘲り、侮辱に反発せず、彼らのために赦しを神に祈る方。
☆神が私たちに求める生き方
- <模範>神に徹底して従順に生きるイエスの姿は模範である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。十字架にかけられた主イエスが人々からののしりを受け、侮辱され、あざ笑われた場面を読みました。主イエスは反発し憤ることもなく、彼らを憐れみ、彼らのためにあなたに赦しを乞いました。
- このような主イエスの愛、そして人間を救うために徹底してあなたに従順に生きる主イエスの従順。主イエスの愛と従順は、当たり前のものではなく、真実なものであると受けとめます。そしてこの真実は、信仰者がひそかに抱く不信仰を砕き、神への従順に導くのではないかと思いました。
- 主イエスの真実な歩みを深く心にとめることができるように導いてください。そして私を信仰の従順へと導いてください。福音書を黙想する中で、主イエスの真実をさらに知ることができるようにしてください。今は受難節の黙想をしています。導いてください。
☆与えられた導き
- 受難節の黙想の中で、主の真実を知ること