マルコ福音書 15章23~32節 侮辱されるイエス
2022年4月11日
(内容)
- イエスは十字架につけられた。イエスは人々から侮辱され、あざけられた。
(黙想)
- 兵士たちはイエスを十字架につけた後、服を分け合ったという。イエスの他にも二人の強盗が十字架につけられたので、3人分の服を分け合ったことになる。兵士たちは裕福ではなく、貧しいのだと思わされる。
- 午前9時に十字架につけられた。十字架につけられたイエスは、人々からあざけられたことをマルコは書いている。
- 通りかかった人たちは、イエスをののしって、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と言った。人々はイエスの活動については知っていた。祭司長、律法学者たちも「他人は救ったのに自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と侮辱した。さらにイエスと一緒に十字架につけられた者たちもイエスをののしったとある。
- 人をののしる、これは卑劣な行為である。人間の心の卑しさを見せられる思いがする。そしてこれは誰の心にもある。普段は心の底に隠れているが、何かあると姿を現す。
- イエスは侮辱を受けてどう思われたのか。鞭打たれた体の痛み、十字架につけられるために釘で打たれた痛み、出血などのために、肉体は言うまでもなく、精神的にも弱っていたのではないかと想像する。しかし自分が侮辱されていることははっきりと知ることができると思う。心身の弱まりのために侮辱に対して応答する気力はなくなっていたかも知れない。
- あるいは、内心怒りを感じたかも知れないが、それを外に表すことはしなかったのか。それともイエスは怒りをも感じないほど悟りきったというか、超然とした心を持っていたのか。人間的な感情に左右されない心、悟ったような心を持っていたのか。真相は分からない。
- 人は侮辱されることには敏感である。自分が軽んじられることには敏感である。なぜならプライドが傷つけられるからである。少なくとも私たちは侮辱されることに敏感である。反発の思いをあらわに出すか出さないかは、その時の状況による。
- もう一度イエスの思いを考える。侮辱に対して何らかの反感を抱いたのか、それとも超然とした心、悟った心で受け流したのか。イエスはまことの人間である。まことの人間なら、私たちと同じように侮辱に対して憤り、反感を抱いたと考える。しかしイエスはまことの人間ではあるが罪は犯さない人であった。従って侮辱した人たちに対して、反感の気持ちを外に出したり、内に押さえ込んだりはしなかった。反感の気持ちに左右されなかった。つまり相手は自分に対して罪を犯したと認識した。相手の罪に仕返しをする気持ちはなかった。むしろ「神よ、許してください。彼は何をしているのか知らないのですから、と罪の赦しに生きている」と考えたい。なぜなら、自分もイエス・キリストに似た者となりたいから。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人々の嘲りを受けたが反撃しなかった。人々の罪を受けとめた。イエスは赦しに生きている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様は十字架につけられ、ひどい侮辱を受けました。人間の罪がイエス様に向けられました。しかし主は侮辱に対して怒りや抗議、反感を表すことなく、しかしそれらの感情に動かされることなく、人間の罪をご覧になり、父よ、彼らの罪を赦してください、彼らは自分が何をしているのか分からないからです、と祈られたのではないかと考えます。赦しに生きる、とても大切なことだと思います。
- しかし天の父よ、今私たちの世界では、強大な力を持つ者が極悪非道なことをしています。そしてそれを簡単には止められない状態が続いています。これをご覧になればイエス様も心を痛められることと思います。
- 彼らの行為は、人間を愛し、人間を大切に考えるあなたの御心に反しています。いや、あなたの御心を愚弄していると言えるのではないでしょうか。いとも簡単に、そして平然と人の命を奪うなんて、あなたの御心を侮辱しています。そうです、彼らは神などいるものか、と己の力を誇っているのです。神を恐れず、自分は何でもできると思っているのです。その行為は目に余ります。
- 天の父よ、このように人間の命が軽んじられ、人間が愚弄されているのをあなたは見過ごしにされるのでしょうか。あなたの御心はどこにあるのでしょうか。天の父よ、今こそ立ち上がり、御心を行ってください。ウクライナの人たちを救ってください。
- 今日は、あなたが愚弄されている状況を覚え、あなたに立ち上がってくださるように祈りたいと思います。
☆与えられた導き
- 神へ嘆願の祈りをする。