マタイ福音書 5章11~12節 迫害される人々は幸いである
2023年7月24日
(内容)
- イエスのために迫害されるとき、喜びなさい。天には大きな報いがある。
(黙想)
- イエスのために生きる。これは大切である。キリスト者は何のために生きるのか。主のために生きる。
ローマ 14:7~8
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
- 自分は何のために生きているのか。主イエスのために生きているのか。自分が何のために生きているのか、自己吟味をすることは大切である。主イエスのために生きていなければ、自分の信仰は、独りよがりの信仰になっている可能性がある。
- 信仰者は主イエスのために生きる。その時に、ののしられ、迫害され、悪口を言われることがある。ののしること、悪口は言葉の暴力である。人というのは、他者を裁くことが好きである。言葉の暴力だけではなく、体に対する暴力を加えられることもある。精神的な暴力もある。
- そのような時喜びなさいとある。喜ぶ理由として二つのことがあると思われる。
- 第一に、イエスも預言者も迫害された。自分も迫害される程の者になったことを喜ぶことができる。使徒言行録5:41。
使徒 5:41
それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き
- 第二に天には大きな報いがある。キリスト者に待っているのは、天における報いである。
- この世における名声とか、地位とか、この世で味わうものではない。自分のために生きる者は、この世での報酬を求めることになる。この世での報酬は一時的なものである。天の報いを待ち望むことは大切である。
- 天の報いとして何があるのか、それを知っておくことは大切である。すべてが分かるとは限らないが。
- 自分は、今どのように生きているのか。主のために生きているのか。主のために生きるという時、何か具体的な目標に向かって生きることがあるだろう。あるいは、そのような目標はなくても、自分が置かれ場所でキリスト者らしく生きるということも大切である。「あなたがたの行いを見て、人々が神を崇めるようになる」(マタイ5:16)。
- 老いて現役の仕事から離れ、主のために生きるとして、どのようにして生きるのか。生きるとは何かを成し遂げることなのか。それもある。日々の日常を主と共に生きるということもある。置かれた状況の中で、キリスト者として生きるのである。
- 老いは、老化、病気、介護、孤独など色々な試練が伴う。老いを生きるとき大切なことは、神の国の希望に生きることではないだろうか。
- 僕にとって一つだけ確かなことは、許される限り、日々聖書を読んで生きること。そして賛美して生きること。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>天の報いを与えてくださる方
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>主のために生きること
- <勧め>迫害や、悪口、ののしられることを恐れない。その場合は喜ぶこと。
- <約束>天には大きな報いがある。
(神の導き)
☆祈り
- 父なる神、天には大きな報いがあると書かれていました。それが何かは分かりません。聖書には、それを示唆する言葉が幾つもあります。パウロは、「キリストと共にいる」(フィリピ 1:21)と語ります。あるいは「義の冠を受ける」(第二テモテ4:8)と語ります。御国を待ち望む思いを新たにしたいと思いました。アブラハムは、「天の故郷を熱望していた」とあります(ヘブル11:16)。
- 今日は御国の希望を示す言葉を味わいたいと思います。今日はヘブル11:16を思い巡らします。
☆与えられた導き
- ヘブル11:16を思い巡らす