マタイ福音書 5章4節 悲しむ人々
2023年6月20日
(内容)
- 悲しむ人たちは幸いである。その人たちは慰められる。
(黙想)
- 現在悲しんでいる人は幸いである。理由は慰められるから。「慰められる」は未来形の動詞である。将来慰められるとの意味であり、それがいつかは明らかではない。神の国が到来したときと考えることもできる。
- では何を悲しんでいるのか。イエスは誰に向かって話しているのか。5章2節によれば、弟子たちがイエスの近くに寄ってきたのでイエスは語られたとある。この山上の説教の終わりの、7章28節では、「群衆はその教えに驚いた」とある。
- イエスの教えは基本的に弟子に対するものであり、群衆ではない。では弟子は何を悲しむのか。イエスに従う生活の中で出会う悲しみか。11節には、イエスのために、罵られ、迫害され、悪口を浴びせられることがある。このようなことを悲しむのか。
- 人間は不幸に出会う。そして人は悲しむ。人間が出会う不幸を悲しんでいる人に向けられた言葉なのか。通り魔に遭って家族を失って悲しんでいる遺族。仕事を失って路頭に迷って悲しんでいる人。人生がうまくいかず悲しんでいる人。人間的な色々な悲しみがある。このような人間的な悲しみには励ます言葉は見つからない。
- イエスのこの言葉は、愚かな言葉、愚かな教えと受け取られる。悲しんでいる人に、将来慰められるから、あなたは幸いなんだよ、と語ると何を言っているのだと怒りを向けられるだろう。
- では何を悲しむのか。イエスの弟子は主の祈りを祈る。「御心が天で行われるように地でも行われるように」。御心が地で行われない、行われていない、これは弟子の悲しみである。イエスの弟子は、神の御心の行われることを願うし、そのために生きる。また神ご自身を宣べ伝える。この世は罪に支配され、人間の罪が様々な問題を起こしている。イエスの弟子は、御心が行われることを願い祈る。また自ら御心を行って生きる努力をする。
- あるギリシャ語辞典には、「この世にあって苦しみ、神だけにしか希望を託すことのできない人々の嘆きを指している」との説明がある。こういう解釈もあるだろう。
- しかし今の僕には、神の御心が行われないことを悲しむとの解釈がしっくりくる。世は罪人に満ち、人間の罪の犠牲になっている人が多い。
- ロシアがウクライナに侵攻して、命を奪われた多数のウクライナの人たちがいる。ロシアの指導者の政策は「殺してはならない」を意図的に破る。他者の命を奪うことを正当化するような目的というものがあるのだろうか。戦争の終結を願ってもなかなかその時が来ない。平和を実現する人々は幸いであると言われるが、平和は遠い。御心が行われないことは悲しい。
- 意地悪な人は、なぜ、このような悲しみを神は許しているのかというだろう。教会が福音宣教をゆだねられていることは、この世の現実が、罪に満ちていることを前提としている。神はこの世の悲しむべき現実があることを放置しているわけではない。私たち人間に罪を悔い改め平和をつくるように願っておられる。
- キリストの弟子の希望は、終末において神のご支配が完成することである。神の御心が行われない現実が放置されているわけではない。この世にあって御心が行われるように願い、祈り、努力する。この世にあって御心が行われ、喜び感謝するときが来ることもある。その時は喜べば良い。すぐに来なくても絶望しないで、「御心の天において行われるように地にもなさせたまえ」と祈り続けていく。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>御心が行われていないことを悲しむこと。
- <教え>慰められるときが来ることを知る。
- <教え>望みを失わないで御心が行われるように祈り続けること。祈る人は祝福の中にあると信じる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、御心が行われない現実を見るとなぜですか、早く御心を行ってくださいと祈ってしまいます。御心をいつ行うかは、神さまの自由であり、一番良いときに、御心が行われると信じます。
- いくつかの祈りの課題について、慰められる日の到来を覚えつつ、祈り続けます。悲しみの中にあっても、あなたに覚えられている者であることを心に留めます。
☆与えられた導き
- 御心の実現の日を待ち望み、課題となる祈りを祈り続ける。