第二コリント 8章1~7節 慈善の業において豊かになれ
2021年10月13日
(内容)
- パウロは、マケドニア州の諸教会の慈善の働きを紹介しつつ、コリント教会にも慈善の働きを勧めている。
(黙想)
- パウロはマケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを紹介する。マケドニアの諸教会とは、フィリピ、テサロニケの教会である。彼らは聖なる者たちを助けるための慈善と奉仕に参加したいと願い出たとある。聖なる者たちとはエルサレム教会のことであり、エルサレム教会は貧しかったと言われる。慈善と奉仕に参加する、それが神の恵みと言われる。
- 神の恵みというと、神から何かを与えられることと考える。ここではマケドニアの諸教会はエルサレム教会のために慈善の業に参加することにしたこと、つまり与える業に参加することが神の恵みだと言われる。これは愛の業であり、愛の業を行うことができる、これは神の恵みだとパウロはいう。人間は与えることより得ることを望む。愛の業を行うことができるのは神の恵みであるが、このような神の恵みを私たちは欲するのか、という問いもある。
- マケドニアの諸教会は、「満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさになった」という。救われた喜びが愛となり、人に惜しまず施すことになったというのは理解できる。しかし極度の貧しさがあふれ出て、施しになるというのはどういうことか。極度の貧しさの中にあるなら、慈善という与えるわざにはなかなか参加できないのが常であると思う。しかし極度の貧しさの中にあるから、貧しさの中にある聖なる者たちへの思いを持つことができ、貧しさの中にあっても、ささげる思いが与えられたということか。慈善、施しは富んでいるからできるというものでもない。人間には惜しむ気持ちがあるから、持てる者はいよいよ惜しむということもある。
- そしてテサロニケ教会は、力に応じて、また力以上に慈善の業に参加しようとした。救われた喜び、そして隣人愛がそこにはあった。
- そこでパウロはコリント教会にも慈善の業においても豊かな者になりなさいと勧める。豊かさというのは所有において豊かであるだけではなく、業において豊かになる豊かさという者がある。慈善の業に拠り取り組み、慈善の業に豊かになるようにパウロは勧めている。コリント教会の人たちは、「信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、パウロたちから受ける愛など、、すべての点において豊かであると言われる」。そして慈善の業においても豊かになれとパウロは勧めた。
- マケドニアの諸教会とコリント教会はそれぞれ置かれた状況は異なる。マケドニアの諸教会は、救いの喜びと愛の現れとして慈善に取り組んだ。コリント教会は、豊かな教会であるので慈善の業においても豊かであれ、とパウロは勧めた。
- 教会に関わる者としては、教会のための献金を献げている。またキリスト教関係の団体の働きのためにも献金・寄付が求められ、献げることはある。僕もいくつかの団体には寄付をしている。慈善の業に富むというのは、感謝なことであると受けとめる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>慈善においても富む者になること
- <勧め>救われた喜び、感謝を、慈善という形で表すこと
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日の聖書を通し、慈善の業においても富む者になりなさいと勧めを受けました。マケドニアの教会の例は、慈善とは富む者が行うものではないことを知らされます。惜しむ心はだれもが持ちます。大切なのは、相手を思う心ですね。「聖なる者たちを助ける」とは、貧しいエルサ教会を助けることでした。大切なのは気持ちですね。
- 私も慈善において富む者になりたいと思います。手もとに「信徒の友」という信仰の雑誌があります。その中にはキリスト教関係の団体についての広告などもあります。それらを見て寄付できるものがあれば寄付したいと思います。その他にも調べて見たいと思います。
☆与えられた導き
- 寄付する団体を調べる。