第一コリント 11章23~26節 キリストの体なる教会

2020年12月17日

(内容)

  • 聖餐の聖定の言葉が示されている。イエスは聖餐を行うように命じられたのである。

(黙想)

  • イエスはパンを裂き、それを弟子たちに与えた。これは何を意味しているのか。イエスはなぜ、パンを与えたのか。しかもご自身の体として与えたのか。イエスは何を願っていたのか。裂かれたパンを食べることは食事としては意味がない。それゆえ裂かれたパンを食べることには象徴的な意味がある。どんな意味なのか。
  • イエスは裂いたパンをご自分の体であると言われた。裂かれたパンはイエスの体という。どういうことか。十字架の上でイエスは死んだ。手足は釘で打たれ、腹には槍を刺され、出血のために死んだ。イエスの体は裂かれたと言うべきなのか。裂かれたパンは、イエスが十字架で亡くなったことを指し示しているのか。裂かれたパンを食することは、イエスが自分のために十字架で死んでくださったことを受け入れるということなのか。
  • 弟子たちは裂かれたパンを食べる。裂かれたパンは弟子たちの体内に取り込まれる。イエスは弟子たちのうちにおられることを象徴しているのか。
  • イエスは一つのパンを裂いた。そして弟子たちは裂かれたパンを受け取る。弟子たちが受け取った裂かれたパンを集めればもとの一つのパンとなる。ということは共に裂かれたパンを受ける弟子たちは、「ひとつ」であることを意味するのか。裂かれたパンを食する者は一つの共同体を形成することを意味するのか。とすれば教会はキリストの体という理解は間近になる。
  • 裂かれたパンを食べる、それはイエスとの交わりに生きることを意味するのではないか。そして弟子たちが共に食することは、弟子たちが共同体、信仰共同体を形成することを意味する。そしてこの共同体の基礎は、十字架で死なれたキリストである。キリストの十字架の死による贖いによって基礎づけられる共同体である。
  • 旧約によれば、エジプトで奴隷であったイスラエルの民は奴隷としての苦しみから解放され、シナイ山の麓で神と契約を結び、神の民となった。イエスは、この杯は新しい契約であると語った。つまりここに新しい神の民が誕生するのである。イエスはこの地に、イエスを信じる新しい信仰者の群れをつくろうとされた。裂かれたパンを食べる者はその一員である。
  • 一つの杯から弟子たちはぶどう酒を飲んだ。ぶどう酒はイエスの血を意味する。その血は十字架で流された血である。契約の成立には血を流すことが必要であった。イエスの血は契約の成立を意味する。この契約は神と信仰者の間の契約である。信仰者は神の招きによってこの契約に入れられる。この契約の土台は、贖いとして十字架上で死んだイエスである。
  • そしてイエスの記念として行う。この聖餐に込められた意義を覚えるために記念として行う。イスラエルの民は出エジプトの出来事、彼らが神の民とされたことの記念として、一年に一回、過越の食事をした。それを過越祭と呼ぶ。キリスト者は聖餐を行いイエスの死を覚える。だからパンを食べ杯から飲むことは主の死を告げ知らせることになる。聖餐は、主の死を告げ知らせるという意味では伝道となる。しかし未信者にはわかりにくいだろう。イエスはこれを記念として行うことを命じている。十字架を思い起こすことは大切なのだ。
  • パウロがここで「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と語る。この手紙の15章でパウロはイエスの復活について語るが、パウロはこう語る。「最も大切なこととしてわたしがあなた方に伝えたのは、わたしも受けたものです」と語る。ここでは誰から受けたのかは書かれていない。しかし聖餐については「主から受けた」と言う。それはいつのことか。
  • パウロはガラテヤ書で神は御子を彼に啓示したと語っている。信仰によって義とされることを知らされたことは間違いない。さらに何を知らされたのか。聖餐について主から直接教えられたというのは、いつのことなのか。
  • 26節で「主が来られるときまで」とあるので、再臨の信仰が表明されている。再臨については、パウロの他の書簡でも書かれている。
  • 聖餐は主の死を告げ知らせる。聖餐にあずかる者は主キリストとの交わりに生きる。信仰者の集いである教会は、キリストの体と言われ、信仰共同体としての教会はキリストとの交わりに生きる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • (御子)自分の記念として聖餐を行うことを命じる方
☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)聖餐は主の死を告げ知らせるものである。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、主がお命じなったように教会では定期的に聖餐式を行っています。それは主の死を告げるものとして、主が私たちの罪の贖いのために死なれたことを告げるものとして行っています。そして聖餐にあずかる都度、そのことを確認しています。
  • 聖書を思い巡らし、聖餐は私たちがキリストとの交わりに生きるべきであること、教会はキリストの体であることを覚えました。私たちの信仰はキリストとの交わりに生きることであり、また教会はキリストの体であることは、聖餐にあずかる者たちが知っているとは限らないし、知識として知っていたとしても、実際にキリストとの交わりに生きているのか、あるいは教会がキリストの体であることがどのように理解され、キリストの体になるためにどのような努力がされているのかは、明白ではありません。それは課題だと思います。それは私たちの信仰の成長の度合いによると思います。
  • コリント教会も未成熟なところのある教会でした。パウロの語ることを理解できる信仰者がどれほどいたのかと思います。パウロがこの手紙を書いたおかげで、私達は聖餐について学ぶことができますので感謝です。語るべきは語る、パウロの姿勢は模範ですね。
  • 今度の日曜日はクリスマス礼拝。礼拝の中で聖餐式が行われます。式文に書かれている順序によって式が行われます。式文で、聖餐の意義がどのように語られているのか、注意して聞きたいと思います。そしてイエス様と弟子たちが最後の晩餐を過ごしたあの現場に身をおいてみたいと思います。聖餐の場において主の声を聞きたいと思います。
☆与えられた導き
  • 主のみ声を聞く思いで聖餐にあずかる