列王記上12章1~15節
2017年5月4日
(内容)
ソロモン王が亡くなり、イスラエルの人々は王を立てるためにシケムに集まった。そこにはソロモンの子レハブアムがおり、またヤロブアムがいた。ヤロブアムは、レハブアムにソロモン王が課したような苛酷な労働、重い軛を軽くするなら、あなたに仕えますと進言する。レハブアムは、父ソロモン王に仕えた長老たち、また自分と共に育った若者たちに相談し、父以上に苛酷な労働を課すことを決めた。
(聖書に聞く)
☆神はどのようなお方か
- 今日の箇所には、神がいかなる方かは語られていないが、ダビデを王に立てたのも、ソロモンを王に立てたのも神であり、神は彼らに王としての心構えを教えている。レハブアムは父の後継者として王になるが、神が望まれるような王となるか否か。
☆神が私たちに求める生き方について
- 物事を決断する時、決断の理由をきちんとさせる必要がある。レハブアムは、長老たちの意見、若者たちの意見を聞いた。長老たちの意見は、民のしもべになり、その求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、民はいつまでも王に仕えます。民の求めに応じなさい。若者たちの意見は父ソロモン以上に、王らしく、苛酷な支配を徹底させなさい。
- 長老たちの意見は、王として謙遜さを持つことを教えている。若者たちの意見は、王としての自尊心を満たすような誘惑に満ちた意見である。どちらに従うのか、何を基準に決心するのか。
- 神が求める王はいかなる王なのかに思いを馳せることが大切である。
- 長老たち、つまり老人の意見には耳を傾けるべきものがある。
(黙想)
- 自分を王に立てるのは誰かを考えることは大切である。レハブアムは、たまたまソロモンの子であるので王を嗣ぐ立場になっている。王位を自分の力で得たわけではない。祖父ダビデも、父ソロモンも、神によって王に立てられている。王位を与える神のみ心を考えることは必要である。神はダビデにもソロモンにも、「わたしの道を歩み、わたしの目に正しいことを行いなさい」と語っている。長老の意見、若者の意見、どちらが神の目に正しいことなのだろうか。自分が神によって立てられたことを思うべきである。
- 僕を牧師に立てたのは神さまである。引退に至る経緯を考えると神さまの導きのあったことを思わざるを得ない。自分の限界を感じ、引退もやむを得ないとの思いになって決意したわけではない。引退を考えてもいなかった時に、ふとしたきっかけから引退を考え、引退へと導かれた。神さまが、別な役割、働きをさせようとしていると考えることができるのではないか。私らしい働きをさせようとしているのではないか。一つの教会に奉仕するのではなく、フリーな立場で福音を伝える働きを神さまは備えているのではないか。デボーションの伝道師となるように導いておられるのではないか。
- 先日友人のAさんから手紙が来た。その中にBさんのことが書いてあった。Bさんの教会では、新しい牧師を迎えたとのこと。新しい牧師を迎えるに当たって、「もっと深く魂を養う教会の建設を」という魂の渇きを持った方がおられるとのこと。その方は、長く教会に仕え、教会を愛しておられる方とのこと。牧師の働きとして福音を宣べ伝え、御言葉に生きる信徒を育てることの必要をあらためて思わされた。レハブアムは民の声を退けたが、牧師は信徒の声に耳を傾けなければならない。御言葉によって生きていきたい、御言葉の養われる歩みをしたい、との切なる求めがあるのではないか。
(実践)
- Aさんに手紙の返事を書く。
- 5月14日にC教会で奉仕する説教を書く。その日までじっくり推敲する。
- 御言葉に生きる、ということで僕が経験した範囲で、教会には課題があるので、それをまとめてブログに書く。