マタイ福音書 7章1~6節 人を裁くな

2024年5月28日

(内容)

  • 人を裁くことを戒める。自分も同じことをしており、神から自分が裁かれることになる。

(黙想)

  • 1~2節の裁くなとの命令と、3~5節のおがくずをとる教えは、もともと別な教えであったと思われる。ルカ6章37節以下ではこの二つの教えは別物とされている。
  • 「裁くな」の命令。自分が他者を裁けば、同じ理由で自分も裁かれるからと警告される。私たちが人を裁く場合、それは自分の心の中でなされることがある。自分の思いの中で人を裁くのである。あの人はこう言う人だと否定的な見方をし、人を判断し決めつける。別のケースでは、裁く思いを別の他者に告げる。ある意味それは悪口を言うことになる。悪口を言う習慣があると、他者も自分の悪口を言っているかも知れないなどと余計な心配をすることになる。
  • 人を裁く理由、そのものが自分にも当てはまるから人を裁くなとイエスは教える。もし人を裁く思いが生じたなら、その裁きが自分に当てはまるかどうか、吟味することが大切である。当てはまるなら、自分を変えなければならない。また裁く思いが湧いたら、その人のために執り成しの祈りをすることが大切だと考える。その繰り返しが、裁く思いから、自分の心を解放するように思う。
  • 3~5節は、他者の欠点を見つけたら、それをその人に忠告することについてである。イエスは忠告する前に、自分の欠点に目を向けるように教える。私たちが見つける他者の欠点。それ以上に大きな欠点が自分にはあるとイエスは教える。でも自分ではそれには気づかない。他者から見れば、私の大きな欠点は目につく。私が他者の欠点を見て忠告するなら、相手もこちらの欠点を見て忠告することはできる。実際には、こちらが忠告すれば、相手は反発を感じる。自分だって欠点があるのにと反発する。他者に対する忠告はよい結果をもたらすとは限らない。
  • 自分の欠点、自分の目から丸太を取り除くなら、はっきり見えるようになるという。何が見えるようになるのか。おそらく相手を思いやりをもって見ることができるようになるのではないか。そのようにして相手に接する中で、相手も自分の欠点に気づいていくようになるのではないか。人間は人から注意されて自分を変えることは少ない。
  • 二つの教えが一つの段落に組み込まれている。心の中で他者を裁くこと。相手に忠告すること。いずれも、このようなことをするのは偽善者だとイエスは言う。自分のことを棚に上げて他者を批判する。そこには優越感があるかも知れないし、自分を誇る思い、プライドがありそうである。
  • 聖書という鏡によって自分を見ることが大切だ。この鏡がなければ人は自分を肯定しがちであり、他者の欠点に目を向けがちとなる。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>人を裁かない。
  • <勧め>自分を顧みること

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を黙想でき感謝します。今日は人を裁くことについて教えられました。若い時は、人を裁いたことを思います。しかしやがてその人のために祈ることを教えられました。他者の目の中にあるおがくずがあることに気づくことは悪いことではありません。それは観察の結果です。そこで裁くことがいけないのです。その人の弱さを知って執り成しの祈りをするなら、それは御心に適うことになると思います。
  • 最近は、裁く思いはなくなりました。自分との関係の浅い人なら、気にしませんし、自分との関わりが深い人の場合は、執り成しの祈りをするようにしています。人を裁いて、自分を誇ったりすることはありません。少しはキリスト者らしくなったのでしょうか。信仰者としての歩みが清められたことを覚えて感謝です。御言葉によるあなたの導きを感謝します。
  • 今日はこの黙想をブログに書きたいと思いました。裁く思いのある人に役立つかもしれません。
☆与えられた導き
  • 聖書黙想をブログに書く。