ローマ 7章1~6節 キリストのもの
2023年12月21日
(内容)
- キリストに結ばれたのは、死者の中から復活したキリストのものとなり、霊に従う新しい生き方をするためである。
(黙想)
- 洗礼を受けてキリスト者になると私たちは変わる。「律法の下ではなく、恵みの下に生きる」(6:14)。「律法から解放され」(7:6)、「罪からも解放される」(6:7)。「死に至る実を結んでいた」(7:5)が、「神に対して実を結ぶようになる」(7:4)。「聖なる生活の実を結ぶ」(6:22)。
- 洗礼を受けてキリストに結ばれたキリスト者は、キリストと共に死にキリストと共に生きる者となった(6:8)。これは信ずべきことであり、霊的な出来事である。
- キリスト者が神の子とされたこと、キリストに結ばれ新しく造られた者となったこと、これも信ずべき霊的な出来事である。
- これらを信じ、一歩踏み出して歩む時、この霊的な出来事が実際のこととして体験できる。これを繰り返すと、この霊的な出来事を実感することとなる。
- 聖書を神の言葉と信じ、聖書の言葉を土台として物事を考えるようになることも、神の子とされたしるしであり、新しく創造れた者であることのしるしである。
- 「霊に従う新しい生き方」(7節)は、霊的な出来事を信じて、一歩踏み出し続ける生き方である。
- 自分が自分のものではなく、キリストのものであるとの自覚も、神の子とされたしるしである。
- キリストと共に死に、キリストと共に生きるという霊的な出来事をいかに体験し、それを現実としていくのか、それが信仰生活の課題である。僕の場合は、この霊的な出来事が自分の身に起きたと信じ、一歩踏み出す歩みを続ける中で、キリスト者となっていった。私たちはキリストを信じ、キリスト者とされ、キリスト者になっていく。
- 今日は、自分がキリストのものとされていることを思いめぐらす。自分の人生は自分のものではない。自分が自分の思い通りに生きて良い人生ではない。僕自身は、自分の思い通りに生きる人生が最善の人生とは思わない。
ローマ 14:8
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
- 主のために生き、主のために死ぬ。これが最善の人生だと思う。自分は主のもの、だから、主のために生き、死ぬ。そして自分は羊飼いなる主に養われる羊である。自分の中に潜むあの否定的な思いを打ち消し、素直に信仰に歩みたい。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>自分は主のものである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、あらためて洗礼を受けてキリストに結ばれる時、キリスト者としての自分が変わるという霊的な出来事を思います。洗礼を受けた若い時から、今日まで信仰の歩みを続けてきましたが、この霊的な出来事を体験してきたことを思います。特に今日は、自分がキリストの者であることを心に刻みます。そして主のために生き、主のために死ぬ者でありたいと願います。
- 以前からそうですが、私の心には二つの心があり、信仰に生きようとする心、それを否定する思いがあります。この否定的な思いに対して、そろそろ決着をつけないといけないと思いました。決着をつけて、喜んでキリストのものとして歩みたいです。決着をつけるために祈りから始めたいと思います。ヤコブの手紙に、得られなのは求めないからだとありますから、求めたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 否定的な思いに対して決着をつける。