マルコ福音書 8章34~37節 イエスに従う
2022年6月30日
(内容)
- イエスは、わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと教えられた。それは命を得るためである。
(黙想)
- イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいと命じる」。なぜそうする必要があるのか。
- それは救いのためである。人間は地上の死で、すべてが終わるわけではない。人は死んだらどうなるのか、後の世がある。
マルコ9:43
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」。マルコ 10:29~30
イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける
- 永遠の命を得ることが大切である。
マルコ 8:36
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
- 永遠の命を得ることを考えることは、この地上の歩みを軽んじることにはならない。むしろ、この地上の歩みをいかにしたらよいのか、導きを与える。つまり永遠の命を得ることを目標にして歩むことは、地上の歩みを最善のものにするのである。
- キリスト者は、この世を生きることと神の国に生きることを分離しない。神の国を目指し、この世を生きる。永遠の命を目標にして歩むことは、キリストに結ばれた者の歩みである。キリスト者の生は、キリストに結ばれての生である。
- 「わたしに従いたい者は」。キリストに従うとは、キリストに結ばれて生きることである。つまりキリストに結ばれて生きていきたい者はキリストに従う。自分を捨てるとは、自分を第一にすることをやめることである。キリストと結ばれて生きるなら、自分第一にすることはできない。結婚生活でも、自分のことだけを考えていたら、結婚生活は成り立たない。相手のことを考えなければならない。自分を捨てるとは、自分のことだけを考えることを捨てることであり、キリストに結ばれて生きることを選択することである。
- 「自分の十字架を背負って」。イエスは十字架を背負った。だからイエスに従う者も自分の十字架を背負う。十字架とは何か。イエスの十字架は、そこで罪に対する神の怒りを受けて死ぬ場であった。35節によれば、「わたしのため、また福音のために命を失う者は」とあるので、十字架を背負うとは、イエスのため、福音のために命を失う危険を背負って生きることと言える。
- わたしのため、また福音のために命を失う者は命を得る。永遠の命を得る。永遠の命を得ない者は「命を失う」と言われる。たとい全世界を手に入れても命を失ったら何の得があろうか。この世の人生で世界を我が物にしても、死後、永遠の命を得ることがないなら、何がよいのか。死後の運命は、この世での幸福よりもはるかに大事なのである。
- イエスに従わず、十字架を負わない選択はあるのか。イエスは群衆を呼び寄せて、「わたしの後に従いた者は・・」と教えられた。群衆にも教えられた。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」とあるから、十字架を負わない選択はないと言える。
- 忘れてはならないのは、イエスに従う生き方が一番よい生き方であること。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>十字架を背負ってイエスの後に従うこと。
- <警告>自分の命を救おうとする者はそれを失う。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私は信仰を得て、キリストに従って生きてきました。後悔も悔いもありません。私には信仰者として生きる以外の選択はありませんでした。私は福音を必要としました。だから主の後に従って生きてきました。今、人生の終盤にさしかかっていますが、感謝のみです。
- しかし天の父なる神さま、私たちが生きているこの世界は人間の罪が満ちています。横行しています。主イエスの十字架のあがないを無視したかのような現実です。残念な思いがします。それだけサタンの支配が強いのでしょうか。あるいは歴史の過程で、人間の理性が中心となっていて、理性は神の存在を受け入れないし、受け入れても自分が受け入れる範囲で受け入れるという状態で、人間の罪を認識する方向に理性は働きません。
- 今は人間中心の時代です。あなたを認識する理性こそ、真の理性だと思います。あなたの福音が宣べ伝えられるように願います。あなたの御名が崇められる世界となるように祈り続けることにします。特にキリスト教国であったヨーロッパの国々において福音が広まるように祈ります。
☆与えられた導き
- ヨーロッパの国々において福音が広まるように祈る。