第二コリント 1章1~7節 神をたたえる
2021年5月18日
(内容)
- 「慈愛に満ちた神、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられるように」と神をたたえた後、パウロは苦しみと慰めについて語り、コリント教会の人たちを共に苦しみ、共に慰めを受ける信仰者の交わりの中にあると語る。
(黙想)
- パウロは、苦難に際して慰めを与えてくださる神について語る。パウロは証しをしている。この証しは、今苦しんでいない人にも慰めとなり、今苦しんでいる人にも慰めとなる。そしてパウロはコリント教会の人たちを共に苦しみ、共に慰めを受ける信仰の兄弟、仲間と書いている。教会を慰めの共同体と考えていると言える。
- 3節。パウロは神を慈愛に満ち慰めを豊かに与える神と賛美している。
- 4節。パウロは自分が苦しみの中にあっても神から慰めを受けたので、これを証しとして語ることによって、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができると語る。
- 5節。パウロは、自分の苦しみを、キリストの苦しみが満ちあふれたと理解する。キリストは人々を救うために、神さまの御心に従って働き、苦難の死を遂げた。キリストを宣べ伝えるパウロは、苦難に遭うとき、キリストの苦しみを味わっていると理解する。パウロは自分をキリストと一つであると理解する。そしてパウロはキリストから慰めを与えられたと語る。
- パウロは苦しみに直面して何でこんな目に遭うのかとは語らず、キリストの苦しみに自分はあずかっていると理解する。苦しむことはある意味で、光栄なこととなる。
- 6節。神は苦しみに対して慰めを与える方なので、パウロが悩み苦しむ時もまた慰めを受けるときも、どちらもコリント教会の人たちの慰めとなると語る。神は慰めを与える方との証しの言葉が語られる。
- 7節。パウロはコリント教会に対して抱く希望は揺るがないという。コリント教会も苦しみの中にあっても、慰めを受けるとパウロは信じている。苦しみの中にあってコリント教会がつまずいたり倒れたりすることはないと確信を語る。
- 最初に思うことは、コリント教会は色々な問題を抱えた教会であったこと。パウロたちと苦しみと慰めを共にするような教会であるとは思えないこと。コリント教会宛の二つの手紙には、コリント教会に起きた問題についてパウロが色々書いているが、コリント教会は、必ずしもパウロの書いたことを受け入れているとは限らない。ただ最後にはパウロとコリント教会はよい関係に導かれたようなので、パウロは大きな信頼を寄せている。広い心からの愛といえる。
- 僕は人生で二度、つらい思いをした。苦しい思いをした。最初は大学生の時でまだ信仰は持っていなかった。二度目は牧師になってからで、苦しみに対してどうしていいか分からなかった。体調も悪くなりかけた。神さまが逃れの道を用意してくださった。神さまの憐れみを受けた。
- パウロはここで、自分の苦しみはキリストの苦しみが満ちあふれて自分に及んだとあるように、パウロは自分の苦しみをキリストの苦しみにあずかるものと理解している。キリストの苦しみにあずかる者はキリストからの慰めにもあずかるという理解をパウロはしている。
- このような理解は、キリスト者である自分がキリストに結ばれているとの理解が前提としてある。これを知らないと苦しみの受けとめ方が違ってくる。まして苦難を誇る(ローマ5:3)などとは言えなくなる。僕が苦しんだとき、このような理解はまだ持っていなかったのでつらかった。聖書から学ぶことができていなかった。無念である。
- パウロは神を慰めを豊かに与える慈愛に満ちた神と賛美している。パウロのような賛美は僕にはできない。それなら僕は神さまのことをどう告白するのだろうか。これは宿題だ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>慈愛に満ちた神である。
- <御父>あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる方である。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>キリスト者の苦難は、キリストの苦難にあずかることである。
- <約束>苦難の時、神さまから慰めは与えられる。
- <教え>苦しみと慰めを共にする、それがキリストの教会である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日はパウロの賛美が一番心に残りました。残念ながらパウロの賛美を共感を持って私は告白できません。パウロのような経験がないからです。しかし、私にも、私の言葉で賛美できるはずであると思いました。その言葉を見つけたいと思いました。自分の人生を振り返り、信仰の歩みを振り返り、神さまが私にしてくださった恵みを振り返り、私の賛美の言葉を見つけたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- 振り返ったことを文章に残し、賛美の言葉を見つけるようにする。