第一コリント 1章18~25節
2020年8月27日
(内容)
- 十字架の言葉は滅び行く者には愚かなものに見える。しかし救われる者には神の力である。キリストは神の力、神の知恵である。
(黙想)
- 十字架の言葉は、滅んでいく者、つまりイエスを信じない者には愚かなものである。十字架の言葉は愚かに見えるから人はこれを信じない。その結果、救い主を信じないで、滅びる者となってしまう。
- 「滅びる」とはどういうことか。「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」(ローマ2:6)。そして「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」(ローマ2:7)。
- 滅びとは何か。滅びが何かということより、滅びがあることを受けとめるほうが大切である。滅びがあるから、神は私たちに救い主を送られたのである。
- 滅び行く者には十字架の言葉は愚かであるという。十字架はユダヤ人にはつまずきであり、ギリシャ人には愚かであるという。ギリシャ人は知恵を大事にする。そして自分の知恵により物事を判断する。しかし人間の知恵では神を知ることはできない。ユダヤ人は神を信じるが、十字架につけられた者は神に呪われた者との理解があるのでイエスを救い主と信じることはできない。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記21:23)。
- 神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとされた。「聞いて信じる」ことによって人は救われる。神のことは聞いて信じるしか道がない。人間は神を思索し論じることはできるが、それはまことの神ではない。神については聞いて信じるしかない。それは単純明快な理屈だ。しかし何を聞くかが問題となる。私たちは聖書から罪からの救いを聞く。
- パウロは、十字架の言葉の内容については語らない。この手紙を読むのはコリント教会の信者たち。イエス・キリストが救い主と信じている人たち。十字架の説明をする必要はない。
- コリント教会では仲間割れが起きている。そこには何らかの人間的な主張があり、それが対立し、仲間割れが起きている。キリストを信じる、そこに一致点があるはず。初心に帰ることをパウロは進めているように思える。そのためにも十字架の言葉は力であることを思い出させている。
- キリストは神の力であるという。イエス・キリストを信じる私たちは力を得ているのか。どんな力を得ているのか。十字架の言葉は力であるとどのように証しできるのか。自分にとって十字架の言葉は力となっているのか。力となっているからこそ、今信仰者としての自分がいるし、これまでの歩みもある。どのように力となってきたのか。言葉で表現したことはない。それなら言葉にしてみるか。それは証しの言葉となる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>宣教という手段によって信じる者を救おうとされた方。
- <御子>キリストは神の力・神の知恵である方。
- <御父>人間の思いを越える方である。ユダヤ人は聖書の言葉から木にかけられた者が救い主であるはずがないと考えた。でも違った。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>十字架の言葉は救われる者には神の力である。
- <教え>十字架の言葉は聞いて信じるものであり、自分が納得できるから信じるというものではない。つまり自分の知恵で納得できるから信じるというものではない。十字架の言葉は神の知恵であり、神の助けなくしては信じることができないものであり、聖霊の導きにより信じることができるものである。
- <教え>十字架の言葉は神の力である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父、十字架の言葉はギリシャ人には愚かなもの、ユダヤ人にはつまずかせるものです。でも召されて信じた者には神の力と書かれていました。私はこれまで信仰者として40年以上歩んできました。十字架の言葉に力があるからここまで生きてきたのだと思います。感謝です。信仰によってわたしは確かに救われました。
- 今日聖書を読み、十字架の言葉がわたしにとってどのように力であったのか、それを明らかにしては、との思いを与えられました。「十字架の言葉は力です」と語るのは容易ですが、説教を務めとしてきた者としては、これを証しとして語ることが必要だと思いました。今まで十字架の言葉を信じてきましたが、それがどのように力となったのかは、意識してきませんでしたし、言葉にもしてきませんでした。努力してみます。
☆与えられた導き
- 十字架の言葉が力となったことの証しの文を書く