第一コリント 1章10~17節
2020年8月26日
(内容)
- コリント教会内に争いがあるとパウロのもとに知らせが届いた。まず仲違いせず、心を一つにし、思いを一つにし、固く結び合いなさいと勧める。
(黙想)
- コリント教会内で対立がある。「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」など、自分たち指導者の名を上げて、対立し争っている現実がある。何が争いの原因となっているのかはわからない。
- パウロが洗礼に言及しているのは、誰から洗礼を受けたのかによって教会員がグループ化し、対立しているのかも知れない。誰から洗礼を受けたのか、それが信仰者の誇りになっていたのかも知れない。私たちも「あの先生から洗礼を受けたの」と、誰から洗礼を受けたのかを誇りにすることがあるかも知れない。詳細は分からないが、どれを指導者としているかで教会の中に分裂が生じていた。
- これに対してパウロは、キリストが自分を遣わしたのは洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであると語り、教会は福音を信じる者たちの群れであることを教えている。誰から洗礼を受けたのではなく、福音を信じることが大切なのである。
- 福音を告げるとはキリストの十字架を告げ知らせることである。しかし時に、キリストの十字架がむなしいものになってしまうことがある。それは人間の言葉の知恵によって告げ知らせる時である。
- コリント教会内で対立があるのは、キリストの十字架がむなしくなってしまっているからとパウロは考えているのかも知れない。対立というのは、お互いに自分の立場、自分の意見、考えが正しいと主張し合うところから生まれる。教会は相互の立場、意見、考えの多様性を認めつつも、なおキリストにある一致を目指す。それがコリントの教会にはない。キリストの十字架がむなしくされているのではないかとの危惧をパウロはもった。
- キリストの十字架がむなしくされる危険はいつの時代にもあることを教えられる。だからむなしくならないようにすることが大切となる。僕が生きているこの日本において、キリスト教会はキリストの十字架をむなしくしていないと言えるのか。キリストの十字架の死による救いを「罪の赦し」に限定しているかのような福音理解はキリストの十字架を空しくしているように思える。礼拝で長老や役員が祈る祈りを聞いていると、一週間、罪を犯してきたが赦しを受けることができて感謝するとの祈りがなされる。それが毎週繰り返される。
- 罪の赦しだけなら動物のいけにえで十分である。御子イエスの犠牲は動物のいけにえと何が違っているのか。きちんと理解されなければならない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>福音を告げ知らせるためにパウロを遣わした方。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>教会の中で勝手なことをいい、争いを起こしてはいけない。
- <勧め>心と思いをひとつにして固く結び合うこと。
- <警告>キリストの十字架をむなしくしてはいけない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日はキリストの十字架をむなしいものにしてはいけない、ということが心に残りました。キリストの十字架の恵み、それは誰もが知っていると思い込んでいるかもしれません。本当に知っているのでしょうか。知っていると思えば、キリストの十字架の恵みのもつ豊かさ、深さが追求されないということが起きるかもしれません。
- かくいう私が十分知っているかと言われたら、何とも言えません。動物の犠牲は罪の赦しを与えますが、それ以上のことはできず、キリストの犠牲は、私たちを罪に打ち勝たせる力を持つことは知っています。今一度初心に帰ってキリストの十字架について学びたいと思いました。今ロイドジョンズ牧師の『The Cross』を読んでいますが、続いて読み続けます。
- また自分の書棚にあるキリストの十字架を主題とした本を列挙してみたいと思います。
☆与えられた導き
- 『The Cross』を読み続ける
- 十字架を主題とした本を列挙