マタイ福音書 5章13~16節

2020年6月25日

(内容)

  • あなたがたは地の塩、世の光というイエスの有名な教えである。

(黙想)

  • 「あなたがたは地の塩である」。塩は役に立つものである。腐敗を防ぐ働きがあるという。塩は塩気を失ったらもはや役に立たない。地の塩の「地」とは、世の中を意味する。世を腐敗から守る働きが「地の塩」にはある。塩にとって大切なことは塩気を保つことである。塩の場合、最初は塩気がある。しかし段々を塩気を失っていく。地の塩であるクリスチャン。クリスチャンの場合、塩気を身につけ保ち続けることが必要となる。
  • 「あなたがたは地の塩である」。地の塩になりなさい、という命令ではない。すでに地の塩なのである。地の塩とされている。地の塩、それがあなたのアイデンティティーであるとイエスは言われる。地の塩というアイデンティティーを喜び、このアイデンティティーに生きていきなさい、とのイエスの命令がここにある。クリスチャンとして生きるとは、このアイデンティティーに生きることである。どのように地の塩として生きていくのか、それは人それぞれ。自分のおかれた状況で、自分らしく地の塩として生きていけばいい。
  • そして塩気を保つのである。塩気とは何か。それは聖書の言葉と考えることができる。聖書の言葉に押し出されて生きる、そこに塩気があるのではないか。
  • ここで地の塩として何かをするようにとの命令はない。地の塩として存在し続けることが大切となる。存在し続けるということは、何もしないことではない。人は生きているなら、おのずと何らかの行動をしている。そこで塩気が発揮されることが大切なのだろう。他者と関わるとき、小さな愛の実践も塩気となる。
  • あなたがたは世の光である。神によって私たちは世の光とされている。世の光、これもクリスチャンのアイデンティティーである。山の上にある町は隠れることができない。どこからでも見える。ともし火は燭台の上に置かれて、家の中のものをすべて照らす。ものにはみな存在する意味がある。その意味を発揮すること、させることが大切である。クリスチャンは世の光なので、光りとして輝くことが大切。光は照らす働きをする。
  • 光りとして輝くとは、天の父をはっきりと見えるようにすること。世の人たちの目はくらまされているので、神を知ることがなかなかできない。世の光として輝くことは、天の父を指し示すことになる。光りとして輝くことは立派な行いをすることである。その結果、世の人々が天の父を崇めるようになるという。
  • 立派な行いとはどのような行いを意味するのか。英語の聖書(KJV)では good works となっている。「よい行い」である。この人はクリスチャンだから、このようなことをしているのだと思ってもらえるようなよい行い。今の自分にとって、どんな行いができるのだろうか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御子>御子は、私たちを地の塩、世の光にしてくださったかた。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>地の塩であり続けること。
  • <勧め>世の光として輝くこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父よ、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は、信仰者のアイデンティティーが地の塩、世の光であることを確認しました。地の塩は世を腐敗から守ることを思うとき、一つの思いを与えられました。私はブログを書いています。最初は何となく始めたブログですが、今は、あなたの恵みの証人として、福音の証人として文章を書いています。教会は福音を余すところなく宣べ伝えるようにあなたから召されています。しかし現実の教会は、余すところなく宣べ伝えているようには見えません。そこに残念な思いを感じ、福音は何なのか、自分なりに聖書を読み、これまで学んだことを思い返し、福音は何なのかを発信しています。教会の伝道の働きを健康にする地の塩の働きに通じると今日教えられて感謝をします。
  • 今日の聖書を思いめぐらしながら、ある集会でこの箇所を説教したことを思い出しました。「地の塩になるのではない。世の光になるのでもない。私たちは地の塩にされている。世の光にされている」とクリスチャンのアイデンティティーを語ったことを思い出しました。クリスチャンのアイデンティティーを知るようになった頃のことであり、それ以降、クリスチャンのアイデンティティーに生きる歩みを重ねてきました。私の信仰者のとしての姿勢が整えられました。
  • 今日はこのことをブログに書いてみたいと思いました。読む人たちに励ましと慰めを与えることができるような文章を書くことができるように導いてください。
☆与えられた導き
  • ブログに証しの文章を書く