コロサイ書 2章20~23節
2020年5月29日
(内容)
- パウロはコロサイ教会の人たちに、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生きているのか、と咎める。
(黙想)
- コロサイ教会の人たちが守っている戒律、独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行などは、どういうことなのかよく分からない。コロサイ教会の人たちはキリストと共に死んで世を支配する霊とは何の関係もない。死んだということは世の諸霊とは関係がなくなったということ。だから世の諸霊に支配され、世に属しているかのように生きてはいけない。
- パウロはロマ書で、キリストと共に死んだ者は、罪に対して死んだ者、律法に対して死んだ者であると語り、罪や律法から解放されていると語っている。罪は死んだ者に罪を犯させることはできないし、律法も死者に対して、律法を守れと主張することはできない。死者は罪や律法との関係がなくなった者である。キリストを信じ、キリストと共に葬られた者は罪から解放され、律法から解放されたものだとパウロは教える。
- キリストを信じた者はどのような存在なのか、ということを弁えるべきことが教えられている。キリストを信じた者は、キリストと共に死んだ者である。死んだ者は世の諸霊とはもう関係がない。世の諸霊は死んだ者に何の影響も及ぼせない。だからキリスト者は世の諸霊とは関係なく生きることができるし、関係なく生きるのである。言い換えると世に属しているかのように生きることをしないのである。世の人に倣って生きることをしない。ヨハネ福音書では、信仰者は神に属していると書かれている。神に属しているなら、神に属している者として生きることが大切。信仰者は世に属しているようには生きない。世の人たちに倣って歩み、神を信じる者としてふさわしくない歩みをしてはならない。
- 異教の世界にいてキリストを信じた者は、それまで世に属する者として生きてきたので、これをきっぱり捨てることは簡単ではないかも知れない。でも信仰者は神に属する者であり、神の言葉を聞いて生きる者なので、そのように生きることが大切。キリスト者なのに世の人と同じように歩み、キリスト者らしさを失うようなことは望ましくない。
(聖書に聞く)
☆神が求める私たちの生き方
- (教え)キリストを信じる者は、キリストと共に死んだ者である。神に属し、世に属していない。だから世の人のように考え、世の人のように生きてはいけない。神に属する者として生きてることが大切。
- (警告)肉の欲望を満足させるようなことをしてはいけない。世の人は肉の欲望を満足させることを第一にして生きている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、コロサイ書を読んであらためて思います。洗礼を受けイエス様を信じる者たちはキリストと共に葬られ、キリストと共に復活したという聖書の教えがどれほど信仰者に理解され、それが生きる力になっているのか、と。福音とは、罪の赦しだけではなく、キリストと共に死んでキリストと共に復活する、キリスト者の再生が福音の大切な中身になります。それが余り説教で説かれていないように思います。福音理解が偏っているように思えるので。それは諸教会の礼拝説教奉仕をしたとき、長老の方たちの祈りを聞いた強く感じたことです。
- 今の私にはあまりにも厚い壁が立ちはだかっているように思えてなりません。世の説教者たちが、福音をあますところなく宣べ伝えるのを願うのみです。福音は罪の赦しだけではありません。罪からの解放、洗礼を受けることによる信仰者の再生(新生)、聖霊の導きにより神の教えを実践できることなど、福音は豊かです。豊かな福音が宣べ伝えられるように祈るのみです。
☆与えられた導き
- 今日も福音があますところなく宣べ伝えられるように祈る。