コロサイ書 2章16~19節
2020年5月28日
(内容)
- 間違った立場の人たちから批評されたり、不利な判断をされないようにとの警告と、教会のかしらであるキリストに結ばれて成長していくことの大切さが教えられる。
(黙想)
- 食べ物や飲み物、また祭りや新月や安息日を重んじる立場の人から批判されないようにとの警告がなされる。ユダヤ教の立場からのクリスチャンへの批判があるのか。ガラテヤ教会では、ユダヤ人キリスト者の教師たちが割礼の必要を説いたが、パウロはガラテヤ書で反論している。教会の中に異なる教えが入ってくる可能性があり、それに惑わされることもある。だから気をつけなければならない。頭であるキリストに結びつくことを教えないものは警戒しなければならない。
- 偽りの謙遜と天使礼拝。具体的にはどういうことかわからないが、やはり異なる教えであり、教会を惑わしている。頭であるキリストに結びつくかどうか、見極めることが大切である。
- 今、私の周辺の教会には、明らかに異なると思える教えは入っていないように思う。日曜日毎に聖書が説教されている。しかし、しかし。・・・
- 教会はキリストの体であり、キリストが頭(かしら)である。このことはコリント書12章にも語られている。信仰者なら、教会はキリストの体であると多くの人が言うだろう。しかし「体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ」とあるが、この「結び合わされ」が現実の教会では、弱点ではないかと思う。つまり教会員の横のつながりが弱い。
- 確かに教会には組織があり、教会員が組織化され、キリストの体として活動している。また教会の活動も色々な活動が計画されていて、教会員が結び合わされているように見える。しかしそれは教会の活動を行うために結び合わされているのであって、必ずしも、神に育てられるために成長していくとは限らない。組織的な活動をするゆえに他者に対する批判が生まれかねない。キリストの体として成長するとは、信徒が互いに愛し合う教会(ヨハネ13:34~35)となることである。
- もし互いに愛し合うことが教会でもっと積極的に教えられるなら、そこには反発が生じる。なぜなら私たちには肉の性質があるから。他者を愛せない、愛したくない自分を見いだすから。ここを乗り越えて初めて、愛し合う信仰者の群れ、キリストの体なる教会が形成される。教会の礼拝説教では、クリスチャンの生き方は色々教えられるが、愛し合う教会の形成は、教えられていないように思う。教えられていても、あまり実践されていないように思う。
- なぜか。信仰者が聖書に親しみ、自分の内なる肉の性質、罪を向き合わないと、愛する人へと変えられることがむずかしいからだと考える。教会にはいい人は沢山いる。そして多くの奉仕もなされている。しかし互いに愛し合う信徒の群れができているかというとまだまだだと思う。教会で「聖書を読もう」との呼びかけがあまりされないし、説教を聞いていればよい、と語る牧師も多いように感じる。それでは信仰者は育たない。
- まずはみんながもっともっと聖書に親しみ、聖書が何を教えているか自分で読み取ることが大切だと思う。聖書は信仰者の成長についてどう語っているのかを知ることも大切であり、自分は成長しているのか、向き合うことも大切である。
- 牧師として教会に仕えていたとき、僕は皆が聖書を読むようになることに苦心してきた。聖書を読むとは、聖書の教えに生きることである。聖書に書かれていることを知っているだけでは不十分で、聖書によって生きることが大事だ。皆が聖書を読まなければ教会の成長はないと思っている。しかしローマは一日にして成らず。教会の成長を富士登山に例えれば、われわれはまだ麓をうろちょろしているに過ぎない。
- 3章16節以下の言葉がもっと説教されなければならないし、実践されなければならないと思う。
コロサイ3:16~17
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>キリストは教会の頭である。キリストの働きにより教会は、神に育てられて成長していく。
☆神が求める私たちの生き方
- <教え>キリストの体である教会は、神に育てられて成長していく。
- <警告>紛らわしい教えに惑わされず、他者から批判されないようにすること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、聖書が教えることと私たちの現実の差に戸惑いを覚えます。聖書は今から、2000年ほど前に書かれています。その当時の教会が、神に育てられることを教えています。当時とは比べものにならないほど技術が発展し生活は便利になり、だれもが聖書を読める時代となりました。信仰に関する書物もたくさん販売されています。でもキリストの体なる教会の形成は、永遠の課題のように思えます。人間には罪があり、罪の克服は一人ひとりの課題であり、それはいつの時代でも課題です。愛し合う信仰者の群れである教会の形成も、課題です。そして一つ一つの教会がこの課題と取り組まなければなりません。
- 私は牧師を引退しました。指導する立場にはありません。わたしの願いは、私が今礼拝出席している教会に一人の信仰者として仕え、少しでも皆が聖書に親しみ聖書に生きるようになることです。出しゃばらずに、祈りつつ、しかし何らかの形で行動し、仕えることです。今新型コロナウィルスの感染により、祈祷会がいつものような形では行われていません。インターネットを利用したリモート祈祷会が行われています。聖書は読まれます。牧師が短く解説をして共に祈ります。時間の制限があり、聖書を読んでの分かち合いは今はできません。
- わたしの願いは、分かち合いが盛んになることです。そのための触媒的な働きができればと願っています。天の父よ、用いてください。参加者が皆聖書に親しみ、聖書によって生きることができるように導いてください。祈り続けます。導いてください。
☆与えられた導き
- 祈祷会のためにさらに祈る。