コロサイ書 2章6~15節(2)

2020年5月26日

(内容)

  • キリストに結ばれて歩もうとするときに、気をつけなければならないものがある。それは世を支配する霊に従わないことである(8節)。そして人々を支配しようとする「もろもろの支配と権威」から信仰者は解放されたことが書かれている。

(黙想)

  •  エフェソ書6章にはこう書かれている。

エフェソ6:10~13
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

  • 信仰者にとって悪魔の策略に対抗することは大切である。聖書は神に敵対する勢力・力として悪魔、サタン、悪霊などを語る。ヨハネ福音書には、神に属する者とそうでない者と、世に属する者と世に属さない者、真理に属する者などへの言及がある。神の属さない者、世に属する者は、悪魔の支配下にある。
  • 神を信じない人たちは悪魔の支配のもとに置かれ、世に属している。しかし信仰に導かれた者は、世に属さず、神に属し、真理に属する。目に見える世界の背後に悪しき力の支配を見るのが聖書である。「罪からの救い」を説くキリスト教は世の人たちからはなかなか受け入れられない。世に属する多くの人たちは、自分は善良な人間として生きていると考え罪を知ろうとしないし、罪を理解できない。悪魔に支配されているとも思わない。
  • パウロは人を霊的に支配する力を見ている。一方で神の力があり、他方で悪魔の力がある。「キリストはすべての支配や権威の頭(かしら」である(10節)。パウロは15節で、戦いに勝利した将軍が、捕虜を引き連れて凱旋している様子を描く。勝利者はキリスト。そして捕虜としてさらしものにされているのが「もろもろの支配や権威」である。
  • これはキリストを信じる者が悪魔の支配から解放されていることを告げる。悪魔の支配とは、神の言葉を信じさせないところにある。聖書の告げることを信じさせないことにある。悪魔は人間の知性、感情、意志に働きかける。福音を愚かなものと考えさせる。人の欲望に働きかけ、人は欲によって動くようになる。そして人は神に逆らうように意志し行動するようになる。
  • 現代人は、悪魔やサタンを古代人の妄想と見なし、真剣に考えることをしない。自分たちは自由であると考え、目に見えない悪しき力に支配されているとは考えない。そして聖書から目を背ける。現代ヨーロッパなどのキリスト教国で礼拝に出席している人が激減しているのは、悪しき力の支配を認めず、この世界が世俗化、つまり世に属しているからである。
  • 世俗化された社会の特徴は、人間中心的であることにある。しかし世の中の様々な問題は、人間の罪が原因である。世の人々は、人間の罪を見ようとせず、人間の力で世界をよくしようとしているが、うまく行っていない。それどころかますます世界は混迷化している。
  • 今から二千年も前の文書(コロサイ書、聖書)が告げることに驚く。
  • 14節の「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書」は借用証明書を比喩として用いているらしい。人間の罪を責める証書。それが十字架で釘付けにされ、キリスト者は一切の罪を赦されている。キリスト教の世界でも悪魔は働きかけ、信仰者の罪を指摘し、信仰者を「自分は罪深い者である」との意識のとりこにしている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>私たちの一切の罪を赦す方。キリストを信じる者は、もはや罪に定められることはない。
  • <御父>「もろもろの支配と権威」の武装を解除した方。
  • <御子>御子キリストは、「もろもろの支配と権威」に打ち勝つ方。
☆神が求める私たちの生き方
  • <勧め>キリストに結ばれて生きる。
  • <警告>もっともらしい人間の教えのとりこになってはならない。そのためには聖書に親しむことが大切。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス様は伝道開始早々、悪魔の誘惑を受けられました。そしてその誘惑を退けられました。悪魔は現代でも私たちに働きかけ、福音の光りを見えないようにしています(コリント二4:4)。現代人には罪からの救いなど愚かに見えます。悪魔は現代人にあなたの言葉を信じないように働きかけています。そしてクリスチャンですら、悪魔の働きに目を留めない人も多いと感じます。それは礼拝で悪魔の働きが説教されることが少ないことにも原因があると思います。
  • 現代人の理性では、キリストの復活は常識外れ、信じるに値しないこととされます。最後の審判、終末の到来なども絵空事に思えます。ました自分が罪人であるなんて、受け入れられません。自分が完璧な人であるとは思っていなくても、自分は善人であると考え、罪を悔い改めることなど考えもしません。福音宣教の困難を思います。
  • そして私も現代人。初めて聖書を手にしたとき、奇跡や復活は受け入れられませんでした。受け入れたいと思っても、簡単には受け入れられませんでした。あなたの導きによって、段々を信じることができるようになりました。段々と聖書を神の言葉と信じ、聖書を土台として物事を考えるようになりました。
  • 私の課題はやはり終末の事柄を信じることです。信仰の筋道からすれば、信じるのが当然であり自然なのですが、現代人の「理性」が邪魔をしています。悪魔が私にも働きかけています。「理性」の真の成熟は聖書に従うことだと思っています。悪魔に勝利し、み言葉を真理として信じて歩む信仰者にならせてください。
  • 終末の事柄を信じることができるように真剣に祈る時が来たと思います。父なる神さま、祈ります。導いてください。
☆与えられた導き
  • 終末の事柄を真に信じるように導きを祈る。

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29日春日山遊歩道をハイキングした。
歩きながら上に書いたディボーションの内容を思いめぐらしながら祈った。
そしてはっきりと教えられた。
僕は自分の理性を神よりも上に置いていたのではないか、
つまり理性を偶像として崇めていたのではないかと気づいた。
それで悔い改めの祈りをした。
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