ルカ福音書 22章1~6節

2019年3月6日

(内容)

  • 祭司長や律法学者たちは、イエス様を殺すための方策を考えていたが、ユダを用いて殺すことにした。

(黙想)

  • 祭司長や律法学者たちは、民衆を恐れ、イエス様に手を出せなかった。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」(20:19)。
  • 祭司長や律法学者たちは、イエスを殺すことをよしとしていた。つまり自分たちにとって正しいこととしていた。しかし彼らには恐れがあり、行動に踏み切れなかった。彼らは「恐れ」に支配されていた。恐れに支配されている故、自分たちが正しいと思うことができなかった。
  • 人は本能的に恐れから自分を守ろうとする。聖書的に言えば、それは罪の中にある「しるし」である。なぜなら、神は「恐れるな」と私たちに語りかける方だからである。イエス様も私たちに「恐れるな」と語りかけるお方である。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ 10:28)。
  • 人が恐れの中にある時、為そうとする行動は神のみ心にはかなわない。恐れからなす行動は、罪となる。新聞紙上で見るのは、保身に走る人々の姿。国会などで「記憶にありません」と真実を隠す。恐れに捕らわれた人間の姿である。恐れに捕らわれているみじめな人間であることに気がつかず、保身に走り、自分を守るために仕方がないのだ、と自分に言い聞かせ、自分を納得させようとしている。恐れのゆえに、人は間違った行動、悪しき行動を行う。
  • 人はさまざまなものを恐れる。人の目を恐れる。老後の生活など将来どうなるかを不安に思い、将来に対して恐れを感じる。自分の立場が悪くなることを恐れる。病気を恐れる。死を恐れる。自分に対する攻撃を恐れる。どの国も自分を守ると称して軍事力を保持する。恐れのゆえに疑心暗鬼に陥る。
  • 「恐れるな」と語りかけられる方がおられる。これは福音であると思う。
  • ユダの中にサタンが入ったとある。イエスを亡き者にしようとする考えがユダの中に形を取り、彼は行動に移る。日本語では「魔が指す」というような言葉がある。「サタンが入る」という表現は、人間に対して罪を犯させようとする悪しき力がこの世にあることを語る。ユダがイエス様を裏切った理由は何か分からないが、イエスを赦せない思いがあったのだろう。自分の考えを最優先にする時、私たちは罠に陥る。常に神さまのみ心を優先させなければならない。「聖書はそう言うが、神さまはそう言うが、」とためらう気持ちは、自ずと神に逆らう歩みに私たちを導く。「そうだ、お前の考えが正しいのだ」とささやく声があり、それにしたがい私たちは罪を犯す。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方

  • (警告)恐れに捕らわれているなら、恐れからの自由を求めなければならない。さもないと罪を犯すことになる。

(神の導き)

☆祈り

  • 天の父なる神さま、祭司長や律法学者たちが恐れに捕らわれている姿を見ました。恐れを感じるということは、自分の心のあり様が神の前に正しくないことを意味していると思います。しかし、私たちは恐れを感じ、恐れは私たちを支配します。
  • しかし神さまは、「恐れるな」と私たちに呼びかけるお方です。感謝です。かつて私もさまざまな恐れに捕らわれ、あなたによって自由とされました。うれしいことです。第一に、死の恐れからの解放、人の目を恐れること。つまり自分がどう見られているのか、と考えることから来る恐れ。劣等感なども、人の目を恐れてのことになるのではないか。失敗することの恐れ。牧師としてきちんと働かなければならないと考え、失敗することの恐れがあった。ここには人の目を恐れる思いも混じっている。物事・他者に関わることへの恐れ。色んな恐れを経験しました。でもあなたによって解放されたことをうれしく、感謝しています。私たちには、肉の性質があるので、何かあれば恐れが湧いてくるかもしれませんが、「恐れるな」と語りかけてくださり、共にいてくださるあなたがおられるので、安心です。
  • 今日は、自分が感じた恐れについて、そして恐れから解放してくださったあなたに感謝の気持ちを込めて、あなたへの感謝の証の文を書き、それをブログに載せることとします。

☆与えられた導き

  • 恐れからの自由を証しとしてブログに載せる