マルコ福音書 12章1~12節 神の権威

2022年9月22日

(内容)

  • イエスは、祭司長、律法学者、長老たちにぶどう園と農夫のたとえを語った。彼らは自分たちへの当てつけのたとえと知り、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れ、イエスをその場に残して立ち去った。

(黙想)

  • イエスが神殿で荒々しい行動をしたと聞いた祭司長や律法学者たちはイエスをいかに殺すか相談したとある(11:18)。そしてこの箇所でも、彼らはイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れて捕らえることはせず、その場を立ち去った。イエスを捕らえ、殺そうとする祭司長、律法学者たちの思いは、どんどん高まっていく。
  • このぶどう園のたとえは、イザヤ書の5章を思い起こさせる。イスラエルの家は、万軍の主のぶどう畑。植えられたのはユダの人々。しかしぶどうは実らなかった。
  • 旧約聖書を読むと、神は折に触れて預言者をイスラエルに送ったが、彼らは悔い改めなかった。つまり実を結ばなかったことが分かる。イエスを信じる教会は、神が独り子を送り、独り子は殺されたことを知っている。このぶどう園の農夫のたとえは、イスラエルの歴史と、イエスの十字架を指していると言える。
  • このたとえでは、農夫たちは結局主人の権威を認めず、主人が遣わした僕たちを殴ったり、侮辱したり、殺したりして、収穫を主人にさし出そうとしなかった。主人の息子が遣わされたときも、息子を殺している。農夫たちは徹底して主人の権威を軽んじている。
  • これを聞いて、祭司長、律法学者たちは、自分たちへの当てつけであると理解した。農夫たちが僕や主人の息子を殺したことと、自分たちがイエスを殺そうと考えていることを結びつけて受けとめたと思われる。
  • 彼らはもちろん、イエスの権威は認めない。そしてイエスを捕らえ殺そうと考えたが群衆を恐れ、何もせずにその場を立ち去った。
  • マルコ福音書を読む者は、イエスがご自分の受難を覚悟し、十字架に向かって歩んでいることを知る。そしてイエスは教会の隅の親石となったことを思う。「私たちの目には不思議に見える」は、たとえを読む我々の感想でもある。
  • このたとえは我々に、神の権威を認めているか問いかける。自分は神を信じていると言っても、信じ方は色々ある。ぶどう園の主人は農夫たちに収穫を僕に渡すように求めた。我々は神が求めるような歩みをしているのか。正直に自省することが必要だと教えられる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは神から遣わされた救い主であり、神としての権威を持つ方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエスの権威を認め、信じること。
  • <警告>人はプライドを持ち、他者の権威を認めたがらない。祭司長、律法学者、長老たちは、イエスの権威を認めようとしなかった。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。祭司長たちは、宗教的な権威を持っていると自認し、主イエスと対抗していました。そして主イエスの権威を認めることをしませんでした。
  • 私は、あなたの権威を認めているのかと自省を迫られました。そこで思い出したのが、つい先日私が書いているブログにコメントが書かれてました。私の神学理解を疑問視するコメントでした。私は自分の立場を確認し、コメントに応対しました。しかし議論は平行線でした。見ず知らずの人と議論することに気が進みませんでした。
  • 神さまの前に謙遜になることは大切なので、議論の論点を再度確認したいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
  • 議論の論点を確認する。