マルコ福音書 11章27~33節 恐れに捕らわれた者
2022年9月20日
(内容)
- イエスは神殿で荒々しい行動をした。祭司長、律法学者、長老たちがイエスに何の権威であのようなことをしたのか尋ねた。するとイエスは洗礼者ヨハネの活動は神に由来するのか否かを逆に質問をした。
(黙想)
- 祭司長、律法学者、長老たちは、イスラエルのサンヘドリン、最高議決機関の構成委員である。彼らはイスラエルの指導者といえる。イエスは彼らから神殿境内での荒々しい行動について、何の権威によって行ったのか問われた。イエスの行動は、神殿の境内の秩序を破るものであったことは確かである。しかしその神殿は、祈りの家であるはずなのに、強盗の巣になっていたとイエスは見た。イエスの行動は、そのことへの批判でもあった。しかし祭司長たちからすれば、イエスの行動は秩序を乱す狼藉に見えた。
- イエスは何の権威で行ったのかとの質問に直接答えなかった。その代わりに、洗礼者ヨハネについて、彼は神から遣わされたと考えるか否か、逆に問いかけた。イエスからすれば洗礼者ヨハネは神から遣わされた者である。ヨハネを神から遣わされたと認めなければ、イエスが神から遣わされたと言っても、彼らは認めないだろう。イエスは直接自分について答える代わりに洗礼者ヨハネについて問いを投げかけた。
- すると彼らは答えなかった。彼らは洗礼者ヨハネのことを認めていなかった。しかしそのことを表明できなかった。なぜなら、そこにいた民衆はヨハネのことを本当の預言者、つまり神から遣わされたと信じていた。洗礼者ヨハネのことを神から遣わされていないと正直に答えると民衆がどう反応するか、それを恐れて、イエスの問いに「わからない」と答えた。彼らは正直に答えなかった。神の前に誠実ではない。そこでイエスも自分が何の権威によって行動したのか、答えないと応答した。
- 祭司長や律法学者、長老たちは、恐れに支配されている。恐れのために自分の信念を表明することができない。しかも自分たちには権威があると思っている。だからイエスに何の権威によってあのようなことをしたのか、と言う。イエスを裁く態度である。
- 恐れのゆえに、自分の信念を表明できないということは、その信念が真理とは言えないことを暗示している。真理と信じるなら、自分の信じるところを表明できるのではないか。自分の弱さのために信仰を言い表せないこともあるかも知れない。しかし祭司長たちは、自分たちは弱い人間などとは思っていない。しかし恐れには囚われている。これは彼らの問題である。
- 祭司長や律法学者、長老たちは自分たちには権威があると思っていた。彼らはイスラエルの最高議決機関の一員である。しかし神ならぬ者に権威はない。神から権威を委ねられることはある。でもそれは自分の権威ではない。常に神の前に謙遜でなければならない。祭司長や律法学者、長老たちは自分と違う意見を持ち、行動をする者に対して、裁く思いを持ち、イエスを非難した。自分は絶対に正しいと考えている。これは傲慢である。
- イエスは神殿のことを祈りの家なのに、「あなたがたは強盗の巣にしてしまった」と批判した。私たちも時に批判されることがある。自分に対する批判は、すぐに反発しないで、その批判が正当なのかどうか、吟味することが大切である。つまりそれは自己吟味、自己批判することである。祭司長や律法学者、長老たちにはそれがなかった。
- 信仰者は、常に自己吟味を必要とする者であることを知らされる。自己吟味を迫る者、それは礼拝の説教であり、また日々読む聖書である。恐れからの自由をイエスは与えてくださるので、この自由を受け取ることは大切だ。
- イエスはメシアとしての権威に基づいて、神殿の有り様を批判するために荒々しい行動をした。イエスはいやし、悪霊追放、その教えなどで、メシアとしての権威を現されたが、神殿での荒々しい行動においても、メシアとしての権威を示された。
- イエスに対して真実に向き合うとき、イエスからの答えを得ることができる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>メシアである。メシアとして、神殿の境内で強盗の巣になってしまった神殿の有り様を批判した。
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>自分には権威があるなどと思ってはならない。牧師としての権威、教師としての権威、指導者としての権威など、すべての権威は神からゆだねられたものであるとの謙遜さは必要である(ローマ13章1節)。
- <勧め>恐れのために信念に基づく行為ができないなら、恐れからの自由を求めてイエスのもとに行くことは大切である。
- <勧め>いつでもどんな時でも、信仰に忠実に歩みたい。
- <勧め>イエスに対して、正直、誠実さをもって関わることが大切である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、祭司長、律法学者そして長老たちは、主イエスに何の権威であのようなことをしたのかと問いました。しかし逆に主イエスから、洗礼者ヨハネは天からの者だったか問われました。彼らは正直に答えることができませんでした。そして主イエスから答えを得ることはできませんでした。
- 私たちは神さまと向き合うとき、特に神さまからの答えを求めるときは、私たちは正直かつ誠実でなければならないことを思います。
- そして今自分が正直に誠実に主イエスに向き合うとしたら、どうあるべきかを思います。祈るということはあなたに向き合うことです。あなたに向き合う自分のふさわしさとは何かを思います。いかに老いを生きるかは大切ですが、もう一つ、イエス・キリストによる救いの恵みは何であったのかをあらためて明らかにしたいとの思いがあります。深く理解したいと思います。
- 天の父よ、導いてください。あなたの導きを受けるにふさわしい者として歩みたいです。憐れみをもって導いてください。今日も引き続き、ルターの本に学びます。よい学びができるよう導いてください。
☆与えられた導き
- ルターのローマ書講義を読む