マルコ福音書 6章6~13節 神の御支配に生きる
2022年2月21日
(内容)
- イエスは12弟子を呼び寄せ、彼らを派遣した。汚れた霊に対する権威を与え、いくつかの注意を与えて派遣した。
(黙想)
- この出来事は、マタイ、ルカにも書かれている。比較すると違いが見られるが、大きな違いはない。以下の点は共通している。
・弟子たちは汚れた霊に対する権能を与えられた。
・町や村に入ったら、拠点となる家を見つけて宣教すること
・宣教を受け入れない町や村があったら、そこを出るとき、足の埃を払うこと
・旅の途中の日毎の糧は神が備えてくださると信じること。
*ただしマタイは、詳細なイエスの指図を書いている。
- 派遣する目的について違いがある。マタイでは「天の国は近づいたと宣べ伝えなさい」(10:7)。ルカでは「神の国を宣べ伝えなさい」(ルカ9:2)とイエスの指示がある。しかしマルコでは特に指示は書かれていない。
- 派遣後の報告として「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ)。「至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(ルカ)。マタイは特に報告はない。
- イエスは何のために弟子たちを派遣したのか。
- 12節で弟子たちは宣教したとある。弟子たちはイエスが語るのを聞いていたので、それを語ったと思われる。そして病人を癒やし悪霊を追い出す。イエスがしたのと同じことをしたことになる。
- イエスではなく、弟子たちがイエスと同じように宣教し、悪霊を追い出したり癒やしを行うのを見て、人々は驚いたことと思う。弟子たちが宣教から戻ったとき報告をしたと思われるが、それについての記事はない。イエスの働きを弟子たちは担ったのか。しかし弟子たちの派遣は一回切りなので、どんな意義があったのか。
- 悪霊を追い出す経験は弟子たちにとって新鮮な驚きをもたらしたと思う。弟子たちも神の国が近づいていることを再確認できたのではないか。
- 弟子たちは派遣に際し、杖一本しか持っていくことを許されず、宣教の最中、日毎の糧については神に信頼しなければならなかった。イエスの宣教はどうだったのか。イエスもまた日毎の糧を神に信頼して宣教したのか。
- おそらく弟子たちの宣教を受け入れない人たちもいたことと思う。イエスの宣教も信じない人がいた。宣教はいつも成果をもたらすとは限らない。足の埃を払い落とす行為にどんな意味があるのか。弟子たちがそうするのを町や村の人が見ているとは限らない。証しとしての行動とあるが、どんな証しになっているのだろうか。おそらく宣教してもすべての人が信じるとは限らないことの証しと言えるかも知れない。弟子たち自身への証である。
- このマルコ福音書を読むのは、すでにキリストを信じた人たちである。この記事はどんな意味があったのか。それは今この聖書箇所を読む私たちにとってどんな意味があるのか。次のことを確認する。
- イエスは神の国の福音を説き、人々を悔い改め招いたこと。
- 神に信頼して日々歩むこと。神は必要を満たしてくださること。
- 宣教しても信じない人はいること。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神の御支配を信じ、神のお支えを信じて生きること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様は弟子たちを派遣しました。かつて私も神学校を卒業し、教会に遣わされ、福音を宣べ伝える務めに従事しました。生活を含め、あなたが必要を満たしてくださると信じて歩んできました。会堂建築において、子供の教育において、必要を満たしてくださったことを特に覚えます。感謝します。
- 今は余生を過ごしていますが、ささやかながらブログで福音の証しをして過ごしています。この老後の生活をあなたに信頼して生きていきたいと願います。守り導いてくださるようにお祈りします。
☆与えられた導き
- これまでの歩みの導きを感謝し、今後の導きを祈る。