マルコ福音書 3章20~30節 神の働きに対する謙遜

2021年9月13日

(内容)

  • イエスは悪霊を追い出したことについて、悪霊の頭の力によって悪霊を追い出していると中傷された。それに対してたとえを語り、反論された。聖霊を冒とくする罪についても語られた。

(黙想)

  • イエスは気が変になっていると言われ、イエスの身内の者がイエスを取り押さえに来た。そこへエルサレムから来た律法学者たちが「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言った。
  • これに対してイエスはたとえを語り反論した。「国が内輪で争えばその国は成り立たない」と。サタンも内輪もめして争えば、立ちゆかないと。そしてイエスは悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのではないと反論した。
  • そして人の子らが犯す罪やどんな冒とくの言葉も赦される。しかし聖霊を冒とくする者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うと語る。これは人々が「彼(イエス)は汚れた霊に取りつかれている」と言ったからと説明がなされている。
  • 霊的な働きというのは目に見えない。イエスは悪霊を追い出した。悪霊に取りつかれた人の変化で分かる。イエスがどんな力によって悪霊を追い出したのか、それは人の目には明らかではない。だからイエスに批判的な人は「イエスは悪霊の頭の力によって悪霊を追い出している」と解釈したし、イエスを信じる者は、イエスは聖霊の力によって悪霊を追い出していると言うだろう。イエスは何かの力によって悪霊を追い出している。それは確かである。でも本当のところは、人間には分からない。
  • 聖霊を冒とくするとは、分からないなら分からないままにしておけばよいのに、分かったような顔をして聖霊の働きを否定することと言えないか。こういう態度、自分は物事を分かっているような顔をして物事を判断する傲慢は結局神のみ業を否定することになる。使徒パウロはそのような人間であったし、キリスト者を迫害していた。
  • 聖霊は神であるから、聖霊を冒とくするとは神を冒とくすることである。神を冒とくすることは他にもあるのではないか。たとえば神がこの世に救い主として遣わしたイエスを十字架につける、これは神を冒とくすることにならないのか。ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちの信仰理解に基づいてイエスを神を冒とくする者と判断し、十字架に追いやった。自分たちの信仰理解は正しいという思い上がりが、イエスを十字架に追いやっている。イエスを十字架につける、これは神を冒とくすることにならないか。聖霊を冒とくするのと何が違うのか。
  • この箇所を理屈で理解しようとすると無理があるのかも知れない。「聖霊を冒とくする」ことを神学的にどう理解するかを考えると迷いの森に入るような気がする。イエスはもっと単純に、分からないことを分かったような顔をしてイエスの働きを非難したことへの警告として「聖霊を冒とくする者は・・・・」と語ったのではないか。イエスからすれば聖霊の力によって悪霊を追い出していたのだから。
  • 安息日に病を癒やすことの是非をめぐって律法学者たちはイエスを非難した。自分たちは「分かっている」といううぬぼれが、イエスを非難することにつながっている。私たちは知るべきことを知らない存在なのである。それを知っているかのように考える思い上がりがあるのだ。
  • 神の前に私たちは知るべきことすら知らない者であると謙遜になるべきである。謙遜に何が真実であるのか、真理を求めることが大切である。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>軽々しく、人を批判してはいけない。表面的に物事を見て批判してはならない。
  • <教え>私たちは知るべき事すら知らない存在であり、知っているとうぬぼれてはいけない。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日の聖書を読み、思いめぐらすことができて感謝します。牧師生活を退いて、毎週の説教に追われることはなくなりました。そして今じっくりそもそも福音とは何なのかを学び直しています。あらためて説教してきたからといって、聖書の勉強をしてきたからといって福音を知っているつもりになってはいけないことを知らされます。私は学んだし、信仰者として生きてきたし、福音を知っています。でも福音のすべてを知っているわけではなく、まだ知らないという謙遜さが大事であることを思います。説教者として知識として福音を知っていても、それを生きなければ福音を証しとして語ることはできません。私たちは知るべきことを知っているわけではないことを思います。
  • 先日、MLジョンズ牧師の『The Cross』を読み終えました。この本から益を得るのはこれからであると考えています。この本の内容を深く味わっていきたいと思っています。今週は、第1章を味わい、著者が何を言いたかったのかキチンと把握したいと思います。福音の学びを導いてください。
☆与えられた導き
  • 1章読み直し、理解を深める。