マルコ福音書 1章40~45節 イエスの奇跡を言いふらすな
2021年7月14日
(内容)
- イエスは重い皮膚病を患っている人を憐れみ、癒やされた。癒やされた人は、そのことを人々に告げ、言い広めた。イエスは公然と町に入ることができなくなった。
(黙想)
- 40節。イエスのもとに癒やしを求めて重い皮膚病を患っている人が来た。「御心ならば、私を清くすることがおできになりますj」と彼は言った。イエスにはいやすことができるとの信頼、信仰があることが分かる。
- 41~42節。イエスは彼を憐れんだとある。病人の苦しみの歩みを理解し、憐れまれた。主イエスは憐れみ深い方である。そして「よろしい、清くなれ」と言葉を発すると癒やされた。口に出した言葉が現実となるのは、それが神の言葉だからといえる。イエスは神であることが示唆される。イエスは単なる奇跡を行う人ではない。イエスのもとに来る人たちは、イエスが誰であるかより、自分の病気を治してもらうこと関心があり、病気が治ればそれでよいとする人が大半である。イエスは誰なのか、関心を示す人は少ないだろう。
- 43~44節。イエスは二つのことを指示した。一つは、この癒やしの出来事を言いふらさないこと。二つ目は、祭司に体を見せ、自分はもはや重い皮膚病ではないことを証明すること。証明すれば、重い皮膚病人に課せられた生活上の制約がなくなる。
- 45節。この人は第一の指示は守らなかった。彼は自分が癒やされたことを言いふらしたのである。その結果、イエスは公然と町に入ることができなくなったという。町に入り、会堂で教えようとしても人々が集まってきていやしを求められ、会堂に入って宣教することができなくなったと思われる。イエスは町の外の人のいないところにおられたが、そこにも人々が押し寄せたことが書かれている。
- イエスはなぜ、癒やされた人に「誰にも話さないように」と注意したのか。癒やされた人には自分がイエスによって癒やされたことを言いふらしたくなる誘惑がある。イエスはそれを注意した。言いふらしたらどうなるのか、自分を癒やしてくれたイエスが誰なのかを考える機会がなくなると思われる。
- イエスのもとに来る多くの人たちは病気が癒やされたり、悪霊を追い出してもらえれば、それで十分と考えている人たちが多かったと思われる。病気や悪霊がもたらす苦しみから解放されればそれで十分なのである。自分のニーズを満たしてくれればそれでいいのである。聖書が告げる信仰は神の支配に生きる信仰、イエスを主として生きる信仰である。
- イエスとしては、癒やしという奇跡が神の国のしるしであり、神の御支配の中を生きて欲しいとの願いがあった。だから「誰にも話さないように」と注意したのではないだろうか。
- イエスは「神の国は近づいた」と語り、神の国に生きるように人々を招いた。神の御支配の中を生きるように招かれた。神の御支配が現にあることの証しとして病人を癒やし、悪霊にとり憑かれた人から悪霊を追い出した。これは奇跡である。
- 奇跡を求めて人々がイエスのもとに集まるようになった。しかし町に入って会堂で宣教することが難しくなった。神の国の証しとして病人を癒やせば、いやしを求めて人々は集まる。しかし宣教はできなくなる。一種のジレンマがある。
- イエスのもとに沢山の人が来るが、多くの人たちは自分のニーズが満たされれば帰っていく。重い皮膚病の人は、いやされ喜んだであろう。しかし彼はイエスの注意を守らず、自分が癒やされたことを言い広めた。彼も自分のニーズが満たされてそれで満足した人間である。神の国の福音は伝えることができていない。
- 現代の私たちの場合、教会に人々が大挙して集うことはない。会堂で福音を伝えようにも福音を初めて聞く相手がいないという現実がある。私たちもイエスも、福音宣教は何の問題もなしに順調に進むものではないことを思わされる。それでもイエスは休まない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスが口に出した言葉は実現する。イエスは神である。
- <御子>主イエスは憐れみ深い方である
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神の国、神のご支配に関心を示すこと
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、伝道の業は、簡単には進まないことを思わされます。イエス様の場合でも人々は自分たちの癒やしを求め、癒やしが得られれば、それ以上のことを、つまりイエス様を求めることはしませんでした。あらためて人間の利己性、自己中心性を見る思いがします。逆に私たちの場合、人々を引きつけるようなものはなく、人々は教会になかなか来ません。伝道は忍耐強く行うべきものであると知らされます。
- 今日はブログに対するあなたの励ましを祈り求めたいと思いました。
☆与えられた導き
- ブログに対するあなたの励ましを祈り求める。