マタイ福音書 28章16~20節 イエスの権威
2021年4月13日
(内容)
- 復活したイエスは弟子たちとガリラヤで会い、彼らにすべての人をイエスの弟子とするように命じ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる、と約束された。
(黙想)
- 女性たちからの伝言を聞いて弟子たちはガリラヤへ行った。そしてイエスが指示しておいた山に登った。聖書には書かれていないが、復活したイエスが墓に来た女性たちに指示したと思われる。
- 弟子たちは復活したイエスに会い、ひれ伏したとある。イエスが死ぬ前、弟子たちはイエスと行動を共にしていた。その時、彼らはイエスに対してひれ伏すことはしていなかったと思う。しかしここではひれ伏した。復活したイエスを目にした時、弟子たちは何を感じたのか、何を思ったのか。女性たちから聞いていたとはいえ、復活したイエスが目の前にいるのは、まずは驚きであったと思う。なぜ、彼らはひれ伏したのだろうか。復活したイエスは以前のイエスではなかったのか。しかし弟子たちには目の前にいるのがイエスと分かったのである。
- 復活したイエスには何か神々しさがあったのだろうか。復活したイエスに会った時、女性たちもイエスにひれ伏している。弟子たちそして女性たちは、復活したイエスに会い、神と出会ったと感じたのだろうか。それで思わず、ひれ伏したのだろうか。
- 「しかし疑う者もいた」と書かれている。何を疑ったのだろうか。イエスが目の前にいる現実を受け入れることができなかったのか。それならやがて信じることができる。あるいは幻を見たと思ったのか。
- 「疑う」は、我々の信仰生活にもふと現れてくるのではないか。神が共にいると信じている、しかし場合によっては疑うことがある。詩編には、辛い状況、苦しい状況の時に、神が御顔を隠したとか、共におられないと思ったりしている。信じる心には、疑う心も伴っていると言えるかもしれない。
- イエスは「私は天と地の一切の権能を授かっている」と言われた。ということはイエスの命じることに弟子たちが従わなければいけないということである。組織の中に生きる人は、自分より上の立場にいる人の権威を認め、その人の命令に従う。もし逆らうなら、その組織にいられない。それが組織の秩序である。
- イエスは天と地の一切の権能を授かっているという。イエスを信じる者にとって、このイエスの言葉は大きな意味がある。ここで問題は、イエスが天と地の一切の権威を授かっていることを認めるか否かである。信じるか否かである。この問いかけは、この箇所から生じる。マタイのこの箇所を読む者は、イエスをどう受けとめるのか問われる。
- イエスが十字架の上で我々の罪のために亡くなられた救い主であることは信じたとして、さらにイエスは天と地の一切の権能を授かり、私たちに命令する権威を持っている方であると認めるかどうか、信じるかどうか。これはすごい問いかけであるが、根本的な問いかけである。
- 福音書にはイエスの教えが書かれている。キリスト者なら、その教えを守った方がよいと考える。しかし時に、この教えは守るのがむずかしいとか、無理だとか、キリスト者は言う。それはイエスの権威を認めていないことになる。自分が最終的に物事を決める権威もっていると考えている。このマタイの箇所を読まなければ、人はイエスの権威など考えないだろう。
- アダムとエバは蛇の声(悪魔の声)を聞いて、神の命令に逆らった。自分の上に権威ある者がいるのを認めなかったのである。自分が権威になりたかった。これが人間が最初に犯した罪である。そして復活したイエスは、ご自身を天と地の一切の権威を持つ方として弟子たちの前に立つ。イエスの権威を認め従うか否か。弟子たちは従った。そして福音が世界に宣べ伝えられた。
- 僕はイエスのこの権威を認めるのかどうか。人間は誰かが自分の上に立つのを簡単には認めない。プライドがあるから。神でさえ、自分の上に立つことを認めない。神を信じると言っても、表面的に信じる場合と真に信じる場合がある。神の権威を認めて畏れ敬い神に従うのが真の信仰である。しかし表面的にしか信じないで、無意識のうちに神の権威を拒んでいることもある。イエスの権威を認めるのか否か。これはその人が真のキリスト者か否かを明らかにする問いでもある。
- 僕はイエスの権威を認める選択をする。だからといって、イエスの権威に全面的に従っているとは言えない。しかし従う歩みをしたい。
- そして問題は「すべての民を私の弟子にしなさい」である。伝道し、キリストを信じる決断をした人に洗礼を施し、さらにイエスの教えを守るように教えよと命じられている。伝道して誰かをキリスト者にすることが教会の働き目的ではなく、さらにイエスの弟子にすることが目標である。
- 教会の問題は、キリスト者をイエスの弟子にしようとする働きが弱いこと、今ひとつの問題は、それに取り組んだとしても律法主義的になってしまう可能性があることである。「弟子訓練」という言葉は評判が悪い。嫌われる。下手をすると律法主義的になるし、牧師が信者を自分の弟子にしたりする。さらに信者をイエスの弟子にする働きをしていない者からは余計なお世話と嫌われる。
- イエスは天と地の一切の権能を授かっているとはどういうことなのだろうか。聖書は、神とはそもそも一切の権能を持つ方であると語っている。だからイエスは神であるということである。問題は、私たちがどれほど神の権威に向き合っているかにある。アダムのように、神の上に立ちたくなるのが人間である。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御子>イエスは天と地の一切の権威を授かっている方。
- <御子>すべての人を私の弟子にしなさいと命じる方
☆神が私たちに求める生き方
- <命令>すべての人をイエスの弟子とすること
- <勧め>イエスの権威を認めてイエスに従うこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、「私は天と地の一切の権能を授かっている」とのイエス様の言葉が心に残ります。この言葉をきちんと向き合ったのは今回が初めてです。イエス様は天と地の一切の権威を授かっている方なのですね。とすればイエスを信じる者はその権威に服すべきですね。しかし人間にはプライドがあり、だれかが自分の上に立つことを喜びません。あなたでさえ、自分の上に立つのを嫌うのが人間です。聖書の始め、創世記の最初で人間が最初に犯した罪、それは神の上に立ちたいという人間のプライドが犯した罪です。
- あなたの権威を認めてあなたに服するという事は簡単ではありません。旧約聖書を読めばイスラエルの民は偶像礼拝に走り、あなたを見捨てています。私たちがキリスト者になったからといって、あなたの権威に服すとは限りません。あなたの戒めはむずかしい、行うのは無理だなどといって、あなたの教えを批判するのが人間です。
- 私はイエス様の権威を認めることを選びます。イエス様の権威に従うことを選択します。終末の事柄を信じることは私にとって一つの課題でしたが、どうしたら信じることができるようになるのか、その方法を色々考えましたが、答えは終末のことを語るイエス様の権威を認め、イエス様の語ることを受け入れる、信じることにあると教えられました。感謝します。
- これを機会に、聖書が終末について語る聖句をすべて列挙したいと思います。最終的な救いは、最後の審判において救いに入れられることですね。
- またすべての人を弟子にすることについては、私はその努力をしました。そして今は牧師の務めからは隠退しているので、これは現役の牧師にゆだねることにします。しかしイエス様の命令がすべての人を弟子にすることであることは何ら中の形で発信していきたいと思います。
☆与えられた導き
- 終末について語る聖句を列挙する。