第一コリント 7章25~40節
2020年10月22日
(内容)
- 未婚の人は独りでいる方がよいとの勧めがなされる。それは終末の時が迫っているので、それに備え主に仕えることを大切にすべきという考えがある。
(黙想)
- パウロは自分が語ることは主の指示ではないとし、主の信任を得ている者として自分の考えを述べている。また「今、危機が迫っている状態にある」という認識がパウロにはある。29節では「定められたときは迫っています」と語る。また31節では「この世の有様は過ぎ去る」とある。終末が間もなく来るという「時」の認識の中で、パウロは「人は現状のままにとどまっているのがよい」と書く。
- 結婚している者は、離縁する必要はない。結婚していないなら、独りでいるのがよい。でも結婚したからと言って罪を犯すわけではない。結婚すると苦労を負うことになるので、しない方がよいとパウロは意見を述べる。
- 29~31節で「妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように・・・」とあるのは、この世は過ぎ去り、終わりの日が近いので、それに備えることを教えている。この世のことで泣いたり喜んだりしている人は今や、それをやめて主に仕え、終わりの日に備えるようにパウロは教えている。
- 結婚生活を続けると、相手のことを喜ばせようと心を遣うので、主に仕え主を喜ばせようとする思いと心が二つに分かれてしまう。だから未婚の人はひとりのままでよいとする。
- 36節以下では、結婚していない人が好きな人への思いを抑制できないなら、結婚せよとも語る。性的交渉は結婚が前提との考えがあると思われる。
- 最後に夫が死んでやもめとなっている人に対して、結婚してもいいがその場合、相手は信者であることとする。理由は明確には書かれていない。
- パウロは、終わりの日が近いという状況の中での生き方を問題にしている。現状のままでいるのがよい。結婚していない人はそのままで、結婚している人もそのままで。終わりの日が近いからと言って離婚する必要もない。
- 結婚生活を続けると相手を喜ばせようと心を遣うので、主に仕えることがおろそかになりかねないとパウロは懸念している。終わりの日が近いので主に仕えることを大切にしてその時を迎えようとのパウロの思いが溢れている。
- 結婚がひとつのテーマとなっているが、終末が近い状況の中での話しなので、これを一般化することはできない。ここから結婚についての指針を求める必要はないと思う。大事なのは、終わりの日に備えることである。パウロは終わりの日の近さを感じていたが、いまだ終わりの日は来ていない。もしかしたら終わりの日は来ないのかも知れない。僕は使徒信条を告白する者であり、終末の到来を信じる。そして終末の到来を信じることは自分の生き方に影響すると考える。終わりを考えることは今の生き方を変える。自分の人生に終わりがある。死があるゆえに、今をどう生きるかという考え方をするときができる。死を考えず、今は生きたいように生き、死の時が来たら、それはそれで受け入れればよいとの考え方もあるだろう。信仰者の生き方は、終わりを考えて今を生きるという考え方と考える。
- 年をとり、仕事からも引退するとすることがなくなる。すると朝目が覚めると「今日も一日、生きなければならない」と思うことがある。しんどさが心に重くのしかかる。しかし、キリスト者は終わりの日を見て生きる者であり、終わりの日を仰いで今を生きる者である。終わりの日を見るのを忘れると、「今日も一日、生きなければならない」との思いが出てくるのだろう。
- また主に仕えることはキリスト者の一生の課題である。老いた者として主に仕えて生きていく。
- 最後の40節「私も神の霊を受けていると思います」。パウロはなぜ、この言葉をここに書いたのだろうか。何か遠慮した発言に思える。25節の「主の信任を受けている者」であることを伝えようとしているのか。
(聖書に聞く)
☆神が求める私たちの生き方
- <勧め>主に仕えて歩むこと。
- <勧め>終末を思い、今を生きること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父よ、あらためて終末の到来を覚えて今を生きることを教えられました。しかも老いた者として、自分の生の終わりの近きことを覚えて、今を生きることを教えられました。今『救済史と終末論』(近藤勝彦著)を読んでいて終末ということを古来から信仰者がどのように考えてきたのかを読んでいます。私は聖書の語ることを土台にして物事を考えるようにしてきましたが、どのようなことを信仰の先達が終末について考えてきたのか、知りたく思って読んでいますが、この読書を今日は励まされた思いがします。続いて読んで行きたいと思います。そしてキリスト者として老いを生きていきたいと思います。私の歩みを支え導いてください。
☆与えられた導き
- 読書を続ける。